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[ 三代教会長教話 ]

2002(H14)年10月
三代教会長 田 中 花 枝

神様に喜んで頂ける信心を

 あれは二年前になりますが、私が心筋梗塞で日大医科に入院した時ドクターから「田中さんはリンパの多い人ですね」と言われた事がありました。その時からだろうと思うのですが私の両腕の脇の下に小さなリンパらしいものが現れ、少しずつ月日を重ねると共に大きくなってゆくのを感じておりました。
 「脇の下のリンパを両方とも簡単に取って貰ったから心配はないですよ」と言って下さった方もありましたし、医師も「それは簡単なものだ!」と言って貰ったそのリンパ腫は、左右とも次第次第に成長してゆくではありませんか。そして両腕を下ろしても体と腕の間からリンパのふくらみが顔を出す程になり、私自身も痛みを感じないながらも一体これはどうなるのかなと思いましたが、時折痛みが伴う様になって来ましたので、医師に取って頂きたいとお願いをしたのです。ところが簡単に取れると言われたのが「万が一の時には私の手二本だけではどうしようもないから」との事でした。総合病院で処置して貰いなさいという事なのだなと、自分自身納得し、神様がよいようにして下さるだろうと思い、私心は避ける事と自分自身に言い聞かせておりました。
 或日の事、夜中に右の大腿部分辺りが物凄く痛んで目がさめたのです。痛む場所へそーっと手をやってみると、それは私の感覚では五百円玉ほどの大きさの丸い石のような塊が出来ていて、手が付けられない痛さです。思わず「金光様、金光様」とお名前を唱え、体をえびの様に丸めて、痛さを我慢しているうちに、疲れて眠ってしまいました。
 目を覚ましたのは私の起床時間でした。そのときには、あれほどの痛みがなくなっていました。その事が嬉しく、心から神様にお礼申し上げました。それでも恐る恐る手を伸ばして触ってみました。ところが五百円玉の円型はなく数珠玉ぐらいの大きさの石の様に固いものが右側足の内側の付根から下へ四つ五つと縦に並んでいるではありませんか。あの痛んだ時の円型はどうしたのでしょうか。私は七年前に小腸に悪性リンパ腫が出来、摘出手術を受けた時、執刀の主治医は、「ふつうは術後、白血病と同じように抗癌剤を投与するのだが高齢だから止めておこう」と言われ、「手術後の一年間の死亡率は高い」と言われたのでした。思えば今日まで肉体的な変化が様々ありながら、その都度広大な大みかげを蒙ってここまで来させて貰ったのです。繰り返し御礼を申し上げてきたのですが、今年の七月に入って胸部背部がひどく痛み、肺に水がたまり、体中がむくんで入院する事になりました。病院で診て調べて頂いたところ、首筋の両方鎖骨の窪みの中にも無数のリンパがあり、いづれも悪性のリンパ腫ですと宣言されたのでした。
 死亡率の高い一年を乗り越え七年近くも命を頂き、こんな立派な新築の教会建物にも入らせて頂いて勿体ないなぁと沁々と思い、神様へ心から御礼申し上げました。
 入院して特別の治療はなかったのですが、一週間で退院のおかげを頂き帰らせて頂きました。教会に帰らせて頂いた時、私自身鏡をみて顔、手、足の浮腫が消えた事に驚きました。長い間取れなかった浮腫だったのです。嬉しかったです。
 そしてさらに、実に驚いた事は、私の胴体を、手を下ろした腕の両脇から顔を出していたリンパ腫が顔をひっこめているではありませんか。小さくなった!と思いました。
 それから数日を経て更に小さくなってゆき、余り気にかけておりませんでしたが毎朝体温を計る習慣で体温計を脇の下に入れようとすると、大きな窪みが出来ているではありませんか。信じられない事です。リンパ腫は消えたのか!と思いましたがそうではなく、ぺっちゃんこになって胴体にへばり付いた感じでありました。嬉しくて嬉しくて両脇の窪みに手を入れて何と考えても解らない。あの大きな腫が…。両足の付根に列んでいたリンパ腫は?と触ってみますと、やはり並んでいましたがやや元気なく以前よりは小さくなっていました。その他の無数のリンパ腫は変わりなくありました。そして何日も日が過ぎてゆきましたが、足の付根のリンパに依る不思議な円型的になって襲って来たあの強烈な痛みは二度とおこらず、毎日検温する体温計を脇をはさむ時リンパ腫に邪魔されるという事もない。夢を見ているのではないか、と思う程です。
 元雄先生が今年八月カナダでお話を日本語と英語で二日に亘ってする御用が出来て、出発する前に持病の様になっている三叉神経痛がおこり、その痛みのため食事も、話をする事も一切出来ず、神経系統の治療の権威者である医師に最終的に処置して貰い、元気で出発出来ましたのに、現地に入って再び痛みがはじまったとのメールが入りました。私共一同、先生が御用差し支えなく出来る様おかげを下さいませと必死で祈りました。この時ほど遠く離れて様子が解らない辛さを強く感じた事はありません。やがて先生からおかげを頂いたとの電話が入りました。再びはじまった三叉神経痛が、御用が愈々始まる時痛みがピタリと止み、二日共に御用が出来、それを境に痛まぬおかげを頂くという、神様の御働きを体験したと帰国後、感動的に語られたのでした。
 これらのことをふまえて、信心しておかげを不思議とは言うまじきもの、信心しておかげのない時はこれぞ不思議なる事、と仰っておられる神様のお声が聞こえて来る様な気がいたしました。
 このように、神様は、目に見えるおかげを下さいますが、それというのも、神様の願い成就のお役に立たせて頂くために、しっかり御用をするように、難儀をしている人の身になって、おかげを現していくように、と願って下さっていることを痛感します。
 難儀をすることによって、自分の信心を掘り下げることができます。ご神意に心を寄せていくことができます。難はみかげとおっしゃる、その通りです。
 わが身、わが一家を練習帳にして信心の稽古をなさい、と教えて頂いていますが、難あって有り難しの心、難儀の中にこそご神意を汲み取っていく信心をさせて頂くことが大切であると思います。
 おかげを受けているお互い、難儀をしている人びとを導いて、神様に喜んで頂けるような信心を進めさせて頂きましょう。来年は金光大神さま神上がられて一二〇年のお年柄です。神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜び、とおっしゃる信心にならせて頂くべく、精進してまいりましょう。