| 120年記念集会おめでとうございました。
拝読いたしました今月の大崎のメルマガに、モロ先生が小川洋子さんの120年集会でのお話を砂にすっと染み入るようなと形容されていらっしゃいますが、小川さんの文章も本当に其の通りで、またまた形容しがたいです。
特に私のお気に入りのは、「深き心の底にて」で、お広前であるお年寄りの方が 先生に話されているシーンです。 お取次ぎされているシーンを、「言葉というものは、不自由なもので自分の口から出たら全く違うストーリーをかもし出していく。其の方が、話されている話を先生は、左の耳で聞き神からの啓示を右の耳から聞き、信者に話す。それを、金光教では取次ぎという」 と、この様な表現で表されていらっしゃいます。
私が感じるのは、つまり、人に話す言葉とその場で感じり現実とは、違った形になっているであろう。しかし、広前でどんなことを話そうとも神さまはすべてを見通されておられるのだ、と汲み取りました。
小川さんが書かれると「違ったストリーを作り出して・・・・」と表現される。それは、金光教の中(変な表現でしょうか)にいると、 なかなか出来ない素晴らしい表現であり感性であると思っております。 (文章の引用は、本がそばにないのでちょっと違っている部分があれば、失礼します) 小川洋子さんのいとこにあたる、金光紀子さんは小さい頃教会で一緒に暮らしていた時期があり、どんな感じのお子さんだったか一度聞いた事がありました。 そうしたら、いつも本を読んでいた、とおっしゃられていました。
なにか、静かに昆虫の標本をじっと見つめているような、文章を書かれますね。 金光紀子さんは、「洋子お姉さん」と話していました。 高橋ハクシ先生のことも、淡々とみつめておられて、 特に、毎朝のご祈念の後に西田哲学の話になると涙を流されるので、 一同下を向いて、只ただじっと終わるのを待っていらしたとか、なかなか おもしろいエピソードも書かれてます。 だいぶ脱線してしまったので、これで失礼します。
|