| 平和への祈りは、極めて純朴で、誰でも受け容れることの出来るものです。 戦争に賛成した小泉首相ですら、戦争か平和と言われれば、それは誰だって平和が良いと言うでしょう、というようなことを言っていましたね。 平和を祈るということはだれも異論はない。当事者たちも、平和を語って戦争をするのですから、問題は中身です。祈りの質といってもいいかもしれません。
いくら祈っても戦争は起こるし、人は殺される。しかし、祈ってもムダだから祈ることをやめる、というわけにはいきません。 祈りでは政治は動かないから、体を動かして政治の流れをつくる、というのも一つのあり方だし、それでは信仰ではなく政治になってしまうからそれには与しない、というありかたもまたもう一つのあり方です。
認めない、とか、許さない、とか言っても、政治の側は痛くもかゆくもないでしょう。政治や軍事はそういうこととは関係なしに力関係で進んでいってしまう。 ところが、個人の力は無力だと言っても、大海の一滴も海を成していることにはちがいありません。
政治に対する不服従というのは、祈りに似て、一人の力はたいしたことなくとも、何百万人、何千万人の祈り、不服従が束になると、これは強烈なブレーキになります。 政治に対しては、異議申し立て、不服従というのが、案外大きな力になるのではないか、と思っています。 祈りに徹する、ということも、そんな大きなうねりをつくることにつながるのではないか、と思うのです。
「人を思うこと人後に落ちず」の精神で、虐げられる人、傷つけられる人、殺される人に思いをじーっと寄せて、祈り続けること、その大切さに思いをいたしたいと思っています。
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