| 昨日の島薗進先生のお話、如是我聞です。
人間は苦しみに出会ったときに本当の人生が始まる。苦難を意識するが故に超越、救いということを意識する。中世の宗教は、世俗を超えるために禁欲主義をとったり、現世否定的な救済宗教の姿をとった。 その点、金光教などの新宗教は現世肯定的である。この世で良い人生を得ることによって救われる。仏教などはあの世で、新宗教はこの世で超越的なものと一体となろうとする。新宗教の登場は、新鮮な救いのありようを提示した。 しかし、昨今の社会状況の中で、この世に価値を置くと超越性が見えにくくなるのではないか。「あるがままの自然が神」となると、超越性をどこに見るのか。 資本主義の効率主義一辺倒などの世俗的な価値に閉じこめられたために、現代人は孤独、不安、空虚な人生の中で苦悩している。 そうした現世価値を相対化しよう、それを否定して超越性を会得し、救いを得ようとした若者たちがオウム真理教に走った。それは、ねじ曲がった超越性だったが、若者たちが求めようとしたもの、つまりこの世でよく生きることが幸せになるとは思えない、として求めた超越性には注目しなければならない。 近代科学、近代合理主義は世の中を良くした面もあるが、悪くした面もある。近代主義を超えた宗教が求められている。 金光大神を求めるのに、人間教祖論など、近代化の視点で見ようとしてきた面があるが、金光大神における超越性、天地金乃神の超越性を求め直す必要があるのではないか。 金光教は超越性を回復することによって、これからの宗教の進むべき道を示す宗教になると思う。
以上、島薗レクチャーの導入部分をモロ流に受けとめたものです。 この後、死の問題。近代は死を見せない、隠す時代だ。しかし、われわれの生は死と共にある。死をどう考えるか。金光大神の死生観は一見現世主義だが、霊魂の存続を語っておられる。死後の世界、霊魂の存在、死者と共にあるということをどうとらえるのか、を明らかにする必要がある。 さらに、悪の問題を考えることが超越性を考えるきっかけになる。 と続いていきます。
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