| >初めて天地書付を見て「おかげは和賀心にあり」と云うところが、「おかげは我が心 >にあり」と思ったんですよね。 >「和賀心」とは和らぎよろこぶ心だと聞いても、どうしても「我が心にあり」の様に >おもえるんですよ。 >今でもそうですが、我が心と天と地の自然の中や人々の中から学びなさいと云ってる >様に見える所でしょうか。
ごんた朗左右衛門さん、いきなり本丸の天地書附についてですね。 おっしゃるように、「おかげは和賀心にあり」は、基本的に「わが心にあり」だと思います。しかし、「わが心」は「我の心」ではなく、「神の心」だと思います。自分の心と言っても、神のような心になることもあれば、鬼のような心になることもある。 「おかげはわが心にあり」を、「おかげを受けるのも、受けないのも、自分の心次第だ」ともっとも単純に解釈したとしても、その自分の心をどのようにすれば、おかげ(=平和、幸福、健康)になるのか、ということが問題になります。 「神の心」「鬼の心」と書いてみて、思い出したことがあります。三代金光様にある方が、「『わが心に神がござる』とおっしゃり、『わが心の鬼がわが身を責めるぞ』と教えられています。自分の心に神と鬼とがあるとすれば、どれが神の声であり、どれが鬼の声かわかりません。どうしたらよろしいでしょうか」と尋ねました。それに対し、三代金光様は、「わがままと横着をせられなければ結構です」と答えられたということです。 「わがままと横着」が我(が)の心、鬼の心なのでしょう。 (つづく)
|