| 天地書附が誕生する背景には、ただならぬ時代状況がありました。明治6年2月、取次が禁止されます。明治維新という時代の大転換により、徳川300年の幕藩体制が崩れ、明治新政府による天皇制が始まります。仏教から国家神道へと宗教政策も変わります。新政府による神々の統制が始まって、藪神小神は抹殺されます。天地金乃神も、民間のわけのわからぬ神とみなされ、政府によって抹殺されかねない状況にありました。 家族と直信たちは、不安のただ中にありました。金光大神も落胆されたようです。お広前にまつってある神さまもかたづけなければなりませんでした。参拝することも許されませんで、遠くから来た人たちもお広前に入ることも、教祖様と話をすることも出来ませんでした。 そんな状況下、1ヶ月にわたって、金光大神はお広前右奥の3畳の間で蟄居し、60年の人生を顧みました。神さまから頂いた教えを反芻しながら、自分が教えられた道というものについて、深く思いをいたされたでありましょう。 そして、「天地金乃神 生神金光大神 一心に願 おかげはわが心にあり」(ごん太朗左右衛門さん、ここは『お知らせ事覚帳』では「わが心」となっています)という書付をしなさい、と命ぜられます。 お上から取次が許され、再開してほどなく、天地書附がご神命により定まります。このような背景をみますと、神前を撤去させられ、参拝も、祈念も、取次も禁ぜられたときに、わが心に刻み込んだ教えさえあれば、いつでも神とともにあり、救いの道は開かれる、としてこの天地書附が下されたわけです。つまり、形あるものがすべてなくなったとしても、最後に残されたものが天地書附であったわけです。 もともとは、神名書付の形式で、神様の名前だけが書き付けられたものでしたが、それに信心の仕方をも含めて、信心の要諦(エッセンス)として示されたのです。この34文字に本教の信仰が凝集されている、と言われる所以です。
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