| 柳田邦男氏の記事、少し前後を足します。
自分が本好きになった原点はどこにあるのだろうと、記憶を懸命にたどってみると、行き着くのは小学校一年の三学期。急性腎盂炎で三カ月近く休み、自宅で療養した。 戦争中の昭和十九年春先のこと、子どもの本などあまりない時代だったが、近所の同級生の家にあった『三銃士』『小公子』『小公女』などの少年少女文学の本を順に貸してもらっては繰り返し読んだ。物語の展開にひきこまれていくドキドキする楽しさを覚えたのだ。病気は必ずしも負の時間ではない。かけがえのないものを手にする節目になることもあるのだ。
(中略)しかし、感情を移入して涙を流し、胸の奥深くに悲しみの鋳型を刻み込んだのは、『フランダースの犬』と『家なき子』だった。 この種の物語に涙する心の鋳型ができたのは、父との死別、.貧困、手内職といった状況があったからだろう。センチメンタリズムと批判されることがあるが、感情はどうしようもない。少年時代に他者の悲運に涙する経験は成長の糧ではないか。もっとも、『フランダースの犬』のネルロ少年が最後にあこがれのルーベンスの大壁画を月の光の中で見ることができたとき、数々の不幸にもかかわらず、「神様、十分でございます」と言って息絶えたことの深い意味に気づいたのは、五十八歳になり次男を自死で失ってからだった。(柳田邦男 ノンフィクション作家)
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