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■806 / inTopicNo.1)  MMおおさき拝受
  
□投稿者/ 三宅美智雄 @MAIL -(2003/01/29(Wed) 14:36:58)
http://konkokyo.org
    先生、こんにちは。
    日々のご神勤有り難うございます。
    今朝、MMおおさきを拝受。有り難うございます。
    病恩のお話、しみじみと拝読。病んでいる人が、このお思いをなるほどと
    呼んでくれたら…と思います。病んでいる当人は痛み苦しみに振り回され
    て、とても病恩とは受け容れることが難しいと思います。
    ずいぶん前のことですが、信者の病気(医者に見放されるほどの)をお願
    いに四代金光さまに御取次をいただいたとき、(今までに聞いたことのない
    ほどの語調で)「お願いの順序が違う。まず、ここまで生かしていただい
    てきたお礼が先です」と教えられたことがあります。東京へ帰り着くまで
    一緒に行った信者(病人の妻)は泣くばかりでした。私もいろいろと彼女
    に話しましたが、「いのちを助けてくださいとお願いに行ったのに」と
    泣くばかりでした。
    この人は数ヶ月で亡くなりました。生前に頼んで御取次おられたお葬式も
    仏式でされることになり、その後はお正月に家族がお参りする程度です。
    教主様がせっかく教えてくださったのに、それを御取次できなかった私
    に悔いが残ります。病恩のお話を拝読して、いまもなお胸の痛みがなく
    なっていない自分が恥かしく思いました。
    MMおおさき、有り難うございました。


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■807 / inTopicNo.2)  Re[1]: MMおおさき拝受
□投稿者/ モロ @MAIL -(2003/01/29(Wed) 20:35:07)
http://osaki.konko.jp
    三宅先生、いつもご丁寧にコメントを有り難うございます。
     病恩 ー むつかしいですね。しかし、難しいのは病気ばかりではないように思います。「難はみかげ」ということが了解されるにも、相当の心の切り替えというのか、思いわけというのか、観点の転換が求められます。信心というのは、そうした観点の転換を促してくるものであると思います。
     病気は治った方がいいですし、治らなければ困ります。しかし、治ることばかりに思いがいってしまうと、病気を通して伝えようとなさる神さまの思し召しを受け取り損ねかねません。
     「難はみかげ」というのは、すごい事態の受けとめ方だと思います。『神様になった怪傑』を書いたジャーナリスト・福林氏は、著書の中で、福林流の解説をくわえています。「災い転じて福となす」に似て非なるすばらしい宗教的叡智のことばだ、という趣旨のことを述べています。
     すなわち、「難はみかげ」というのは、「難」から「みかげ」へ、ではなくて、「難」=「みかげ」と説いているのだ、ということです。
     福田師の学友・福林氏は、第二次大戦中、アメリカで強制収容所に入れられた福田師が、皆に向かって、「収容所に入れられたとしおれずに、檻の向こうが収容所と考えたらどうか。われわれは、めったに出来ない修養の場を神さまから与えられたのだから、しっかりと修行を積もうではないか」と語って、ご祈念をし、せっせと掃除をした。それからの数年間、福田師は、宮本武蔵よろしく、有意義な日々を送ったのである。まさに「難」をそのまま「おかげ」にしてしまった。
     そのように言って感嘆しています。もうずいぶん前に読んだので、自己流にねじ曲げて創作しているかもしれませんが。
     「病気がおかげ」という世界があるのは、とても有り難いです。病気をしなければわからない自分のありように情けないものも感じますが、「痛みが有り難い」「病気が有り難い」と思えることの何と有り難いことか、と思います。

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■808 / inTopicNo.3)  Re[2]: MMおおさき拝受
□投稿者/ モロ @MAIL -(2003/01/31(Fri) 21:53:18)
http://osaki.konko.jp
     今朝、90代のおばあちゃんが、老人ホームから電話をかけてきました。開口一番、「先生、私、もう有り難くて、有り難くて。なんて結構なお道にご神縁を頂いたことか、と思うと、有り難くて、もったいなくて仕方がありません」と弾んだ声でいわれます。数年前に大病を患い、いのちにかかわる大手術をうけて、今も後遺症を抱えているとはいいながら、感謝の日々です。
     「目は見えるし、耳は聞こえるし、食事はおいしく頂けるし、こんな結構なおかげを頂いているということを、病気をさせて頂いたおかげで、はっきりと分かりました。もし、私があの病気をしないで、ずーっと健康だったら、これほどありありと神様のおかげがわかったかどうかわかりません」と言われます。
     今までは、自分ほどみじめな境遇はないのではないか、と嘆いたこともありましたが、ホームに入ってみて、自分がどれほどおかげを受けてきているか、そしてそのことが分からしてもらえるお道の信心をさせてもらっていることが、どれほど有り難いことか、とくり返し言われます。
     車いすに乗り、外出はままならず、ただただ教会にお参りしたい、と念願しておられます。一日の大半をベッドの上で過ごすのです。人が聞けば、どこが幸せなのか、と思うかもしれません。それが、「有り難くて、有り難くて、お礼の足りないお詫びばかり申しております」とおっしゃるのです。
     信心の力というのはすごいな、と思いました。こういう思いわけ、このような心映えは、信仰のみによって培われるのではないかと思いました。
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■814 / inTopicNo.4)  Re[3]: MMおおさき拝受
□投稿者/ モロ @MAIL -(2003/02/05(Wed) 21:41:50)
http://osaki.konko.jp
    朝日新聞2月2日号の次の2つの記事が目にとまりました。病恩を考えるヒントになります。

    (1)柳田邦男「病気は必ずしも負の時間ではない。かけがえのないものを手にする節目になることもあるのだ。」

    (2)乳がん体験率直につづる
    64人の手記出版「病気がくれた贈り物」

     乳がんの女性を励まそうと、体験者64人が書いた手記「病気がくれた贈り物」が出版された。乳房を失った女性たちに、一緒に温泉に入ろうと呼びかけるグループ「1・2の3で温泉に入る会」(代表・評論家の俵萌子さん)が、手術への恐怖心をなくし、乳がん予防にも役立ててほしいと、会員の声を集めた。

     同会は01年11月に発足し、会員約250人。群馬、東京、関西などに支部があり、各地の温泉で交流を深めている。
     手記には告知のショックで、家族に黙って旅に出た思い出や、乳がんの手術を前に弟を肺がんで失った悲しみ、乳房を失った妻に背を向けた夫への思いなど、さまざまな心情が率直につづられている。
     発病後、人のやさしさに触れ、やがて現実の姿を受け入れて前向きになっていく様子がうかがえる。
     47歳で看護師の免許を取得した直後に告知された女性は、何がこの世で大切なのか教えられた、と書いている。
     会員同士で手術直後の不安を打ち明け、「皆が通る道よ」といわれて気持ちが落ち着いたという人。温泉で胸元に人の「視線」を感じても「あなたも気をつけてね」とにっこりするゆとりが出てきた人。仲間がいる心強さを多くの人が実感している。
     俵さんは96年に乳がん手術をして以来、傷跡が気になって温泉に入れなかった。
     「なぜ私は傷跡が恥ずかしいのか。障害者差別ではないか」と考え込んだ。「会を設立してから、ない胸を張って温泉に入っている。病んだことによって私も成長したと思う」と得たものの大きさを話している。

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■819 / inTopicNo.5)  Re[4]: 柳田邦男
□投稿者/ モロ @MAIL -(2003/02/08(Sat) 11:38:21)
http://osaki.konko.jp
    柳田邦男氏の記事、少し前後を足します。

     自分が本好きになった原点はどこにあるのだろうと、記憶を懸命にたどってみると、行き着くのは小学校一年の三学期。急性腎盂炎で三カ月近く休み、自宅で療養した。
     戦争中の昭和十九年春先のこと、子どもの本などあまりない時代だったが、近所の同級生の家にあった『三銃士』『小公子』『小公女』などの少年少女文学の本を順に貸してもらっては繰り返し読んだ。物語の展開にひきこまれていくドキドキする楽しさを覚えたのだ。病気は必ずしも負の時間ではない。かけがえのないものを手にする節目になることもあるのだ。

    (中略)しかし、感情を移入して涙を流し、胸の奥深くに悲しみの鋳型を刻み込んだのは、『フランダースの犬』と『家なき子』だった。
     この種の物語に涙する心の鋳型ができたのは、父との死別、.貧困、手内職といった状況があったからだろう。センチメンタリズムと批判されることがあるが、感情はどうしようもない。少年時代に他者の悲運に涙する経験は成長の糧ではないか。もっとも、『フランダースの犬』のネルロ少年が最後にあこがれのルーベンスの大壁画を月の光の中で見ることができたとき、数々の不幸にもかかわらず、「神様、十分でございます」と言って息絶えたことの深い意味に気づいたのは、五十八歳になり次男を自死で失ってからだった。(柳田邦男 ノンフィクション作家)

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