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■3565 / inTopicNo.1)  入院中に
  
□投稿者/ モロ @MAIL 一般人(4回)-(2013/12/14(Sat) 17:04:08)
http://osaki.konko.jp
    以下は、私の入院中に『あいよかけよ』という月刊雑誌に依頼されて書いた原稿です。手術について、その体験と思ったことについて綴っています。タイトルは「死生安心の道」です。


    人間の難儀

     人間の難儀といえば、「貧病争」だといわれ、そこに道がついていくことがおかげである、といわれてきました。すなわち経済のおかげ、健康のおかげ、人間関係のおかげです。
     仏教では、人間の苦難は、生老病死の四苦であるといいます。人間の思う通りにならないことを「苦」ととらえます。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。この世は苦しみに満ちている、と説きます。その苦しみからいかに解き放たれるか、そこに宗教的救いを見出そうとしてきました。
     苦しみといわれることを逆に、生まれる喜び、老いる楽しみ、病める喜び、死ぬ楽しみというように、逆転できたら、苦が楽になる。「難はみかげ」になります。

    死生観

     「死」をどう捉え、「おのが死」をどう迎えるのか。これは、人生の大命題です。金光大神の語られた「死」には、「生」(あるいは再生)が裏打ちされています。生と死とがセットになっているように思います。死生一如です。
     「死んだからといって、神のおかげを受けないではいられまい。死に際にもお願いせよ」というみ教えには、死後も神のおかげを受け通す、ということが語られています。死は、一般的には、穢れであり、最悪の結末のようにとらえられますが、「死んでもおかげ」という金光大神のことばには、その真反対の受けとめ方、つまり「死はおかげ」という見方があります。
     「人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」というみ教えが端的に、一切がおかげと教えて下さっています。
     「金光大神は形がなくなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」とのことばは、死んで霊となってはたらく、という新しい地平に私たちを誘ってくれます。いつでも、どこでも、生神金光大神取次が頂けるという、大きな安心に立つことができます。

    死はみたまの誕生

     私たちの命は、どこから来てどこへ行くのでしょうか。天地のいのちを分け与えられて、そしてまた天地に還って行く。その命は、親先祖から続く魂の現れであり、それは子孫へと続き、また死後も霊としてはたらき続けるもの、と語られています。一般には、母親の胎内に宿ったときから息を引き取るまでが生涯と考えられますが、その目に見えるものの背後には、霊というルーツがあり、天地という根っこがあるのです。
     東京布教の先駆者・畑徳三郎師は、金光大神のみ教えから、「死はみたまの誕生である」と喝破され、自分は肉体の生を終えたら、「教祖の道の本当のところを説くために、更生して、信心修行のために行脚する」と語り、「後々の祭も一年祭、二年祭といわずに、一年誕生祭、二年誕生祭というように祝ってくれ」と遺言されました。

    ガン手術

     私は、今、この原稿を、入院中の病院で書いています。十二指腸に進行性癌が見つかり、密着する周囲の臓器、リンパ節ともども切除する手術を受けました。大きな手術にはリスクが伴います。九時間にも及ぶ手術ですから、麻酔から目が覚めないということもあり得る。入院して、主治医、麻酔医から手術についての詳細な説明を聞きました。予想以上の困難な大手術だということがよく分かりました。手術の前日、手術室担当の看護師、集中治療室担当の看護師がそれぞれ、手術中と直後のことなどリスクを含め、詳細に説明をしてくれました。話の中には心配のタネがたくさん散りばめられていました。そして、病棟の看護師から総合的な話をしてくれて、その最後に「手術をうけることに不安がありますか」と尋ねられました。私は「いえ、何も」と即答しました。そう返事をしてみて、「あゝ、本当に、自分には不安も何もないなあ」と思いました。
     手術当日の朝も、心はスカッとしていて、「さあ、おかげを頂くぞ」と勇み立つような気持ちでした。このむつかしい手術、ひょっとして目が覚めないということがあるかも知れません。しかし、それも神さまのご都合。目が覚めないのもおかげだなあ、と心底そう思いました。一切を「神の差し向け」と頂くことができるのが有り難かった。

    信心で通らせてもらいたい

     この安心感は何なのか
     お任せという安心はあるのですが、では生命に対する執着がないのかというと、そんなことはありません。手術して十日後は長男の結婚式です。出たい、という強い願望が湧いてきます。看護師たちからは「結婚式のことは残念ですね」と外出は絶望視されました。結婚式に出たいと熱望する自分と、すべては神さまに委ねよう、という自分とが矛盾なく併存して、心は透明に透き通っているのです。
     ここは一つ、信心で通らせてもらいたい、その一点だけが、私を貫いている思いでした。

     術後、目が覚めたときの感動は表現しがたいものでした。新しいいのちを頂いた感激にうち震えました。私たちの日々は、まさにその連続で成り立っているということを、改めて思わされました。「一日一生」ということばがありますが、まさに今日一日をわが全生涯と思って、かけがえのない一刻を生き切ること。「日々がさら」です。有り難いことに、結婚披露宴に出席のおかげを頂きました。術後十八日目の教会のご大祭には、祭主と教話のおかげを頂きました。
     神さまと共にあるという強い安心感が、生死をも超越していくような一端の実感をもたせてもらう体験でありました。死生安心を頂ける道であることを痛感いたしました。                       (2013年10月)
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