| 昭和2,30年代は東京から金光教本部のある山陽本線・金光駅まで、いわゆる鈍行で行ったものです。「どんこう」なんて死語ですかね。各駅停車です。東京午後2時25分発門司行きです。電化されてからは東京、名古屋、大阪周辺は電気機関車ですが、それ以外は蒸気機関車で、シュッシュポッポと行ったものです。
夕方富士山を望み、静岡のお茶で弁当を拡げて夕食を楽しみます。時間の記憶が定かでないのですが、名古屋が午後9時頃だったかな。米原は夜中。ここでは夜食できしめんを食べます。何せ40分くらい停車ですから。駅のホームの端から端まで散歩したりして運動します。夜汽車に鳴らされるポーッという汽笛は何とも言えぬ郷愁を誘います。
午前4時、京都。5時頃大阪。ここでも25分くらいの長い停車なので、駅の洗面所で歯を磨き顔を洗います。ちゃんと鏡も付いていました。
淡路島が見える須磨・明石の辺りは日が昇って瀬戸内海がまぶしくきらきら光っていました。兵庫、岡山はもちろん蒸気機関車で、トンネルに入るつど窓を閉めたり開けたりします。それでもススが車内に入ってきて、みんなの顔は目の周囲を中心にまっ黒くろ。
そうして、20時間ほど走ってやっと金光駅に着くのです。本部のある木綿山の頂上には教紋をあしらった教旗がはためいています。それを見ると、はるばる来たぜ、という感じで、ジーンとしてしまうのです。
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