| 師走のお朔日を迎え、いちばん大事な一ヶ月をいただき、気を引き締めております。メルマガ12月号、有り難うございます。 北沢教会の移転に関わっての巻頭のご教話を拝読いたし、47年前のことを思い出し、先生のご祈念力に感動いたしております。 私の場合、まず三代金光さまの御取次をいただくことから始まりました。自分としてはアメリカ布教を願っておりましたら、師匠から「金光さまにお届けしてこい」と言われ、ご本部広前にお参りしました。 率直に「アメリカ布教」をお願いいたしましたら、およそ5分ほど、何のお言葉もいただけず、私としては下がるに下がれず、ただ平伏いたしておりましたら、金光さまは「東京がよろしゅうございます」と仰せられました。青天の霹靂というか、思いもつかないお返事でありましたが、「有り難うございます」と申し上げるのが精一杯でした。泉尾教会に帰り、「金光さまは、こうおっしゃいました」と、師匠に申し上げると、「すぐに東京へ行ってこい。家を探しに‥」ということで、翌日の夜行で東京へ出ましたが、どこへ行けばいいのかも分からぬながら、八重洲の近辺を歩きました。どこにも住まいのような建物がなく、ビルばかりでした。それでも、丸一日間歩き続けました。しかしそれは徒労に帰しました。 また、夜行で大阪に戻りましたら、「アホ! なんで聞いてから行かんや?」と叱られました。「もう一度、金光さまにお届けして来い」と言われ、ご本部へお参りし、「東京の地図」を買い、それをもって、お結界に進ませてもらい、「どこへ行かせてもらいしょうか」と、差し出しました。金光さまは、その地図をじっと眺められ、長い時間、ご祈念され、赤鉛筆で「ここがよろしい」と仰せられました。それが板橋区の辺りでした。 教会に戻りましたら、「お前の腹が座るまで、寝るな・食べるな。いのちがけでご祈念せえ」と師匠に言われ、三日間、飲まず食わず、寝ずで、我武者羅でおねがいしました。母が心配して、「親先生に謝ったげるから、うちらへ入っておいで」と言うてくれましたが、なかなか腹が決まらず、夜10時ごろ、誰もいない広前に、誰か人の気配がして、よく見ると、隅っこに母がご祈念してくれていました。 その姿を見て、やっと腹が決まり、共に奥に行き、師匠に「東京へ、やらせてもらいます」と申しましたら、「そうか、腹が据わったか!」と喜んでくれ、翌日の夜行で行って来い。田中はんと一緒に行け」といわれました。田中はんとは、家内の父親です。翌朝、早朝参拝をしてきた岳父に、ことの次第をつげ、一緒に夜行で上京。電車で池袋へ出て、交番で「板橋区へ行きたい」と告げると親切に教えてくれました。今にして思うと、東武東上線の「大山」でした。 区役所も近くにあり、そこで不動産やを紹介してもらい、家探しに、あちこちと歩きました。「金光教の教会」ということを告げると、不動産やは「怪しげな宗教」と思われたのか、何軒目かの業者で、初めてまともに対応してくれました。 その不動産屋の近くの宿で一泊し、翌日あさから、大山、中板橋、常盤台、上板橋と10箇所の物件を見てまわりまいた。岳父が「ここがよろしいと思いまっせ」と言う物件が最終的に二軒。すぐに電話で師匠にお届けしましたら、「ここにせえ」と、今の教会の家を決めてもらいました。そこはある企業の寮でした。 岳父に立ち会ってもらい、不動産やと「交渉」をし、手付金5万円を支払い、帰って、お結界へお届けに行きました。その5万円は、母からいただいたとき、「腹巻へまいていきなさい」と言われ、暑いのに晒しを巻いて、その中へ入れて持って行ったのです。 それから、およそ4ヶ月経って、「本契約」ということなり、12月の25日に、岳父と泉尾の役員で建築業を営んでいる人と3人で、上京。契約ができました。 6畳、8畳、応接室、台所、便所という建物でした。翌年2月11日にわれわれ夫婦と二人の幼児を連れて、道開きをさせていただきました。場所が決まるまでもたいへんでしたが、西も東も分からぬ土地での道開きは、文字通り手探りでした。 長くなって、ごめんなさい。 三宅美智雄
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