以下の文章は、1985(昭和60)年3月10日、先代教会長である父の十年祭の折に刊行された『田中忠一先生 2』に掲載されたものです。内容、表現ともに拙い父の生涯の点描ですが、今回は手を入れないことにしました。父が大崎教会に後継者として入るまでのことは、これを著す数年前に、当時北港教会長(大阪市)の故桑名利一師(父の実兄)から聴取しました。
(田中元雄)

 

厳魂 ー父の生涯点描ー 


出生

 父・忠一は、大正三年三月十七日、大阪市南区立葉町(現在の難波区立葉町)に、桑名利右衛門、マサの次男として生まれた。祖父は、小さな酒屋を営んでいた。店の周辺は、商店と住宅の入り混じる地区で、真向かいが豆腐屋、筋向かいがタバコ屋、油屋、炭屋、漬物屋、左が米屋といった具合で、たいへん庶民的な町の中であった。
 この時、祖父・利右衛門は商売を始めて六年目、金光教に入信して六年目に当たり、信心にも商売にも一心不乱に没入していた。父の信心は祖父の信心を原型としたもので、謹厳実直であり、心中において烈しく燃えながら、表面は大山のごとく静かで、不動であった。


祖父の入信

 祖父は、明治十六年(戸籍では明治十七年一月二日生)、兵庫県英賀保村山崎という在所に、農民の子として生まれた。三人兄弟の末で、父親は桑名蔵造、母の名をしんと言った。幼時は身体が弱かった。若い頃に両親を失い、兄二人が腹違で虐待されたため、いたたまれずに大阪へ飛び出した。八百屋など様々な店に丁稚奉公したが、最後に酒屋に入った。
 明治三十七年、二十才の年に日露戦争が始まり、輜重輸卒〔しちょうゆそつ=軍需品の輸送兵の監督下で輸送に従事する人夫)として徴発された。めざましい働きぶりが高く評価されて、表彰状と褒賞金とをもらった。当時、「重輸卒が兵隊ならば、トンボ、チョウチョも鳥の内という俗唱があったほどで、重輸卒というのは、まさに兵隊というよりも人夫であって、それが褒賞されるのは極めてまれであり、それほど際立った働きだったということであるo

 褒賞金は百五十円だった。この大金を元手に親方から独立して商売を始めたのが、明治四十一年十一月十一日である。この日は、祖父にとっても、桑名家にとっても、記念すべき歴史的な日となる。親方の名は桑名仙太郎といった。姓は同じだが、血筋ではない。この親方が祖父の独立に当たって、信仰と嫁とを同時に与えたのであった。親方はさしたる信心家ではなかったが、商売繁盛を願って月に一度、金光教難波教会にお参りしていた。祖父の方は幼少の頃から、身体が弱かったせいか、神仏参りは好きだった。新しく商売を起こすについて、「絶対に成功せねばならぬ」
 と背水の陣を布く思いであった。未だに丈夫ともいえなかった。何か信仰をしたいと思っている矢先に親方からの誘いである。飛びつくようにして親方の後に従って教会の門をくぐったことであろう。
 それと同時に、「商売するからには世帯をもて」と嫁を世話された。親方の戦死した弟の妻であった。不遇の中にあったのを義兄として見かねたのであろうか。祖父にすれば有無を言わせぬ間の結婚であったろう。かくして、結婚した商売始めのその日に、入信、初参拝ということになったのである。
「どうか、私を一人前の商人にしてください。それがためには、どんな信心でもいたしますから」
 祖父は願った。そして、心中、(自分は身体が弱いし、人並みの信心をしていたのではとてもおかげは受けられん。人は毎日参ることを日参というが、私は朝昼晩と三べん参って日参しよう)と誓うのであった。
「そのように三年間日参いたしますから、どうか三年の間に一人前にしてください」
 と願った。果たして、誓いのままに信心と商売に励み、願いどおりに商売繁盛のおかげを受け、国税を納めて衆議院議員の選挙権を得るほどにまでなった。

 当時、難波教会に参っては、のちに桃山教会を創設した井上又兵衛師にお取次を願い、教えを受けて、正直一途に実践していた。実意丁寧という教えを守って、商売の上にそれを現わしていた。
 例えば、酒でも醤油でも、当時は樽売りだった。樽は、酒や醤油を吸ってしまう。それは仕方のないことで、客の方もそう心得ていた。しかし、祖父は目減りする分を足して配達した。
 また、新しい醤油を配達すれば、古い樽は底に残った分も一緒に持ち帰ってくる。それを数集めると四斗樽いっぱいになる。それが商人の余得であった。それをせずに全部客の方へ空けて渡してくるのであった。
 また、油を升で売るとき、親指を升の中にさし込んで余得を得るという商法も知ってはいたが、
(そういうことではお客さんに相済まない、お道の教えにかなわない) とあくまで客に喜こばれる商売に徹したのである。これについては、親方に、
「お前はアホや。わしはそんなやり方を教えたおぼえはない」
 としばしば叱られたということである。

 そんなことで、店は間口一間ほどの小さなものだったが、とことん客を大事にする商売ぶりに、得意先が増えていった。求道心もますますつのって、熱心に話を聞いてはわが身に行い、いつもお神酒を腰に下げて、病人と聞けば飛んでいってご祈念の中にお神酒を頂かせるという具合であった。
 その熱心さを見込まれて、難波教会の出社の芦原教会から、近くでもあるし、当教会に参ってほしい、との要請があり、芦原教会に参ることになった。芦原教会長から、
「私は話べただ。桑名さん、あんた話がうまいから、皆に聞かせてやってくれ」
 と頼まれた。これまで聞いてきた話や、自分が受けてきたおかげ話をすると、参拝者たちが喜んで聞く。
「もっと話してくれ」と言われるので、「それなら」と難波教会に参って教えを聞いてきてはその話をする、ということで、話の聞き方にも身の入れ方が変わってきた。自分一人が教えを頂くばかりでなく、人の分も聞かねばならなかった。教えを伝えんがためにシッカリと腹の内におさめなければならなかった。こうした機会が、祖父の信心を飛躍的に豊かなものに育てたことであろう。
 ところが、そんな熱心さが信徒総代のねたみを買った。ある人の讒訴に遭い、難波からも芦原からも閉門を食った。信心する者にとって、その拠り所を奪われることほど辛いことはない。祖父は、生涯のうち、このような憂き目に二度もあっている。

 悶々と苦しむうちに病臥した。祖父三十七の年であった。肺病で、喀血がひどかった。みるみるやせた。医者は匙を投げた。商売はようやく軌道に乗ったが、子らはまだ小さい。もはやこれまでかと失意のどん底にある時、難波駅前の南海堂という菓子屋の主人から、
「三田に生神様といわれるお徳の高い先生がおられる-から参ってみなさい」
 と声をかけられ、祖母が参った。金光教三田教会初代の藤村豊吉師が熱烈な取次をしていた。
「途中死んでも構わん、という気になったら参ってこい」
 と言われた。祖父は血へどを吐いて家で死の床にある。藤村師の言に奮起して、朝一番の列車に乗って血を吐きながら参拝し、教会に一週間寄宿した。教会で掃除などさせてもらいながら、教えを聞いては祈念を凝らす中に、快方へ向かった。やがて、さしもの大病も全快した。ありがたし、の一念であった。
 祖父は生まれ変わって、信心に商売に精を出した。三田教会普請の折には普請奉行の役を引き受けて全財産を投げ出すほどの御用ができた。商売は一層繁盛した。

 かくするうちに、家の方へも次第に人が参ってくるようになった。商売を終える頃には大勢の人が集まる。子供は寝る所がないので、裏側の倉庫にコタツをしつらえて、皆が帰るまで寝て待った。すきまから寒風が吹きこむ場所である。父たちは、寒さに身を丸めながら、家の中から力強く聞こえてくる大祓詞を子守唄がわりに聞いた。教話も聞こえてきた。わが子が三才の大怪我で受けたおかげ話も何度となくなされたことであろう。人がどんどん救われた。肺病の人も大勢助かつた。


北港布教

 そんな状況に、誰かが訴えたのであろう。警察がやってきた。教会でもないのに人が集まることはならん、という。巡査が見張り番をする。だが、夜になって見張りが帰る頃を見計らって人が集まってくる。こうなると、祖父はもう酒屋のおやじとはいえなかった。祖父の許へ参ってくる人たちが、毎日お参りできるようになるために布教してほしい、と懇請した。
「一度は無い生命、これもご神命であろう」
 と教師になる決心をした。ところが、三田(さんだ)教会の手続きで布教するわけにはいかなかった。大阪で布教するためには大阪にある教会の手続きでなければならぬ。これまでの習いとして、芦原教会の手続きで教師にならねばならなかった。
 この時代は国家による宗教統制が厳しかった。本教として、布教を誤またしめぬため、今日いう教区をとりしきる支部長に強大な権力が与えられていた。第二教区支部長・吉田新太郎師は難波の直弟子で、祖父が教師志願するについての条件は「三田と絶縁せよ」ということであった。祖父にすれば、大恩人、師匠との絶縁は思いもよらぬことだった。しかし、三田の藤村師はこれを了として、祖父は芦原教会へ修業に入り、教師になるため本部の教義講究所で修業に励んだのである。この間、商売は妻と長男が守った。
 布教地も厳しい制限の中で此花区に決まった。野原の中に民家が散在するような寂しい所である。近くの大阪湾河口近くの大淀川は水もきれいで、泳ぐことができ、カキ、シジミが取れた。現北港教会近くの表通りに出たハス向かいの二階建て長屋に「御貴島布教所」の看板を掲げた。大正十四年二月のことである。
 この時、父はまだ小学五年生で立葉町にあって商売を続ける祖母と共にいた。商売は、祖父の生活を支えた。
 やがて商売の利益をすべて投入して教会を造営し、家族共に生活するに至る。この教会は、戦争中強制疎開で取り壊され、戦後現在地に復興されるのである。


三歳の大怪我

 話が少し逆のぼる。父が三才の時、母親に連れられて親方の家を訪ねた。部屋の中で遊びまわっていた三つ児は有頂天になっていたのであろうか、はずみでガラス戸に頭を突っこんだ。右後頭部の肉片がえぐれて庭へ飛んだ。親方夫人が血と土にまみれた肉片を拾って戸惑っている。祖母は、
「ちょっと待ってください。捨てないでください」
 頭のえぐれた部分に肉片を夢中でくっつけると手拭いでしばり、医者に連れていった。
「お気の毒ですが、このお子さんの生命は保障できません」
 と医者は言った。さらに、
「万が一生命が助かっても、脳を傷めているから、白痴になる」
 とつけ加えて、覚悟を促したのであった。
 三才といえば断片的な記憶の残る年である。あるいは、このとてつもない出来事と周囲のただならぬ空気とは、泣きわめく子の脳裏に深く刻印されたことであろう。加えて、両親は、この時の模様とそのあとの奇蹟的なおかげについてくり返しくり返し、あたかも子守唄を聞かすがごとくしてわが子に語って聞かせた。そのため、この出来事は、いつでも険の中に再現できるほどに生まなましい事件として父に記憶されたのである。
 医者の言に反して、父は正常に育った。いや、医者の言に比すれば正常だったというべきだろう。終生、後遺症が左目と左耳に残った。左目は斜視でよそを向いており、初めて会った人は、父がどこを見ているのか分からなくて、途方に暮れたようだ。右目だけを見ていれば、どきっとするほどまっすぐに凝視していたのだが。左耳も遠かった。お結界に坐ると、左耳を参拝者に向けるので、小声や早口で言われると右耳に手の平を当てて体を左にねじり、
「エッ?なんですか」
 と聞き返すことがしばしばあった。
 父は、鏡の中をのぞきこむ都度、また耳だれが出たり、人の話を聞き返す自分に出合うたびに、三才の時に死ぬはずだった自分というものを想起せずにおれなかっただろう。この事件は、人間としても、お道の教師としても、父にとって、原点だったのである。
「あの時無かった生命を、こうして両親の信心のおかげで、日に日に新たに頂いているのだよ」
 私が高校一年生だった冬の夜、ガランとしたお広前の隅に置かれた火鉢に手をかざしながら、しみじみとした口調で父は言った。
「生命がない、バカになると言われた自分が、こうして神様の御用に使って頂いているのは有難いと思う」
 御用とあらばどんなことでも、というのが父の基本態度だった。自分の勝手、都合というものは斟酌しなかった。力に余ると思われることでも敢えて辞するということがなかった。力不足、自分の手に負えないということはもとより、当り前のことであって、神様に使っていただかねば何も出来ない自分である、というのが信条であった。


遊び心

 親の心配をよそに、父はスクスクと育った。
 北港教会の桑名利一師(父の実兄)によれば、父は子供の頃からめつぽう勝負強かったという。遊びでも、勝負事にかけては無敵を誇っていた。ベッタ(メンコ)をすれば、さとう箱にいっぱい取ってくるし、ラムネの玉(ビー玉)も名人だった。将棋も、碁も独習だったが、たいそう強かった。喧嘩しても、人に泣かされるということがなかったという。大きな相手にも臆することなく歯向かっていくので、生まいきだというのでよく喧嘩になり、兄が菓子折をもって謝りに行った。兄ながら、「忠一は剛胆で、度胸があるなあ」と感心したという。

 私の知る父には、喧嘩強いという印象はない。もっとも、宗教者たるもの、人と敵対するようなことがあってはならぬ、と自戒するところがあったようである。人とぶつかりそうになると、スッと折れてしまうところがあった。
 しかし、向こう意気の強さと短気な性格の片鱗をのぞくことは私の子供の時にあった。それが晩年に非常に温厚になったのは、女性ながら袴を蹴飛ばして歩く、勝気な性格の初代のもとへ養子に入り、ひたすら信心辛抱と耐えた経験によるのかもしれない。
 短気でなかなか引込まないという性格は、余り強くない酒を飲み過ぎた時に出るので、「飲み過ぎないように気をつけている」と語ったことがある。ちょっと飲むとすぐ赤くなって、「眠くなった」とゴロリと横になる姿を、子供の頃よく見た。「それを過ぎると目がすわって、説教を始めてしまうから」と、眠くなったら寝てしまうようにしていたらしい。
 晩年は、次第にそちらの方の手も上がって、うまそうに晩酌を楽しんでいた。直会のあとなど、ゆでダコのように真赤になって、調子にのると、黒田節とか、ちょっぴり猥褻な「タニシどの」をうなって、まわりを喜ばせることがあった。

 私が子供の頃、父は怖かった。黙って坐っているだけで威圧感があった。その時代の父親としては当たり前だったのかも知れない。謹厳実直、御用一筋であって、私が海水浴やゲームで父と一緒に遊んだのは、ほとんどが教会行事の少年少女会で、他の子供と一緒の時であった。父はさしたるオルガナイザーであったとは思えないが、組織活動には随分と力を注いだ。教会・内の各会合を開き、特に、青年、少年少女の育成には力を入れていた。キャンプに陣中見舞に現われて、谷底に落っこったり、デカパン一ちょうになって、ロープづたいに氷川の急流を重荷を背負って渡った姿などが、いまも鮮やかに甦ってくる。

 その父が、私が大学へ入る頃から友人のような間柄になった。これも子の成長とともにそうなるというのは世の常であろうが、私にはそればかりでない、何か父の中身に大きな変化があったように思われるのである。下世話な見方からすると、父が麻雀という遊びを覚えてから、ずいぶんと丸くなったように思う。御本部団体参拝の係員を仰せつかって、国鉄職員のいわゆるご接待の必要から始めたのか、ともかく団参係員の仲間などと麻雀を打つようになった。私も大学時代に少しやったが、父にはとても歯が立たなかった。もともと数学に強く、生来の勝負強さもあって、父の性にピッタりきたのだろう。麻雀は人生ゲーム的なところがあって、浮沈、決断の綾を、自分の人生と重ね合わせて楽しんでいたのであろうか、ともかく好きだった。たとえ家族を相手のもどかしいゲームでも楽しそうにしていた。
 私が大学時代に友人を二人連れて帰り-、夜中に父を起こしに行っても、やらないと言ったことは一度もなかった。徹マンをして、朝五時になると、
「これまで」
 と言って父は御祈念に立っていき、われわれはふとんにもぐる。友人に、
「お前のおやじは超人だな」
 とよく言われた。三度のメシより、と俗に言うが、父の場合は、眠るよりも麻雀の方が好きだったのである。
 だが、母は、麻雀をするなど、教師にもとると考えているので、折々にたしなめる。父も多少うしろめたさがあったのかも知れない。麻雀をするからは御用にさわりがあってはならぬ、と自らにムチ打っているところがあった。このうしろめたさが、父を丸くさせたのではないか、と思っているところが私にはある。御用一筋、行一筋の父は自分に厳しかった。だが、自分の中にはころびを持った父は、今までにない、人を包む温かさを持つようになった。多分、生来笑い上手だったと思うが、よく笑いころげるようになった。入れ歯をふっとばして笑った。もともと感情豊かな性だったのだと思う。情にもろかった。人の話は、心からわが事として聴き入った。テレビを見ていてもよく涙をふいていた。
 洋画が好きで、ウエスタンを好んだ。ジョン・ウェインものなど大好きだった。ハンフリーボガード・スタイルで帽子を斜めにかぶって渋い表情をしてみせたこともあった。晩年の父はとても良い顔をしていた。慈愛に満ちていた。威厳にも満ちていた。信者の人達が、
「先生がトンカツをめし上がる時の、この世にこんなうまいものがあるかというような、あの顔つきが何ともいえない」とか、「大先生が、御神酒を召し上がる時のあのおいしそうな表情と嘆息とは、もう見ているだけでたまらない」と言った。


金光教教師拝命

 大正十五年、父は大阪市立市岡中学校に進学した。名門である。優等賞を何回かもらった。丁稚上がりの利右衛門にすれば、わが子を大学へやるなど思いもよらぬことだったろうが、長男・利一の強力な説得によって父は東洋大学へ進むことになった。大学時代の生活ぶりについてはよく分からないが、牛込の金光教学生寮に寄宿する、まじめな苦学生だったことであろう。
 この在京中に、サンフランシスコ教会創設者・福田美亮師と接触があったらしい。福田師の勧めで北米布教の大志を抱き、大学を卒業すると、すぐ金光教教師を養成する教義講究所へ入った。昭和九年のことである。この時期には、太いロイド眼鏡をかけ、恰幅の良い体躯でのし歩いていたが、無口でおとなしい、ひた向きな修行生であった。行を旨とし、信仰の本義を会得せんとして、様々な試みをしたらしい。
 ある時、教祖奥城の石畳の上に端座してご祈念をしていた。石は焼けて熱く、砂利がスネにつきささった。となりに大声で大祓詞を上げている人がいる。自分もご祈念をするが、となりの声にひきづられてしまう。あの声が耳に入るようでは神に一心は届かぬと、あらん限りの声を出して大祓を上げた。はじめのうちは、暑い、痛い、気が散る、そんなこととの葛藤であったが、やがてご祈念に没入した。どれほど時が経ったのかも周囲がどうなっているかも、何も分からなくなり、ただ水を打ったようなシーンとした静けさがあるのみだった。.無我というのはこういうことかと思った、という。
 父の道の求め方は、大方このようなものだった。理屈よりも実践、論ずるよりも行ずる方である。そういう信心ぶりから福田美亮師の信仰に傾倒したのであろうか。実践型の信心は、具体的で直蔵であった。晩年、ある会合のあと、新橋の地下の食堂で先生方と食事をしている時、丼物のごはんがポロリと足元にこぼれ落ちた。父は何のためらいもなく、それを拾うと。パクリと口の中へ入れた。それを目撃したある先生は、「ウーム、やるなあ」とうなったという。実践を旨とする父の信仰は、人に伝えられる時にも、どちらかというと、ことばよりも姿で伝わっていったといえよう。

 昭和十年、二十一才にして北港教会所属の金光教教師に任ぜられた。
 教師拝命から二年後は渡米する心づもりで、父は準備を進めていた。アメリカは、今と違って船でひと月も旅しないと行きつかない別世界であった。
「後生だから、それだけは思いとどまっておくれ」
 母親は泣いてすがって断念を迫った。度重なる説得も空しく、父は数年がかりの一生の計画を断腸の思いであきらめなければならなかった。無類の孝行息子だったのである。
 後年、私が本部派遣職員として北米へ御用に出立する時、
「私の出来なかった御用を、お前が果たしてくれると思うとうれしいよ」ぐぐっとこみ上げてくるものを辛うじて押さえながら父は言ったのであった。


大崎教会後継者に


(初代教会長)

 昭和十一年十二月六日に結婚した。祖父・利右衛門と教義講究所の同期生だった伊丹教会長・田村幸次郎師の媒酌で、世田谷教会長・藤井フジノの長女、花枝のもとへ婿養子として入った。父二十二才、母二十才であった。フジノはその二年半前に世田谷に単身布教に出ていた。従って、事実上は、大崎教会の後継者として、初代教会長・田中ミチ師のもとへの夫婦養子であった。当初は藤井姓を称したが、三年後には田中姓へ改姓した。私の祖母・フジノはミチ師の姪であり、信心の導きの親であって出社であるという複雑な関係にあった。大阪に住む両親にとって、東京はなお遠かったが、北米よりはましだと考えられたことであろう。
 大崎教会は大正十五年三月六日の開教で、それから十年余りたっていた。「五反田布教所」の看板を掲げたのが大正十二年十二月だから、それから数えても十三年という、まだ草創期だった。場所は国電五反田駅から南西の方角約四〇〇メートルほどの泥つぼい目黒川のほとりにあった。すぐ近くには谷山橋がかかっており(今はその上を首都高速が走っている)、酒屋、米屋、そば屋、カフェーなどの商店が隣接していた。五反田三業地のはずれに位置していたこともあって、置屋の女将や芸妓の参拝も多く、大祭直会では彼女らの鳴り物入りの大勢の芸やもてなしで大そう賑やかだったらしい。
 初代教会長・田中ミチ師は明治五年五月五日生まれで、この時六十四才。初代の夫、田中砧可氏の実弟・田中義一氏は、大崎教会が開教した一年後、すなわち昭和二年四月二十日に内閣総理大臣になっている。そんなことから初代が布教に出た時は、朝日新聞が大々的に記事にしたという。そういう、いわば、社会が注目する教会であった。
 高齢にもかかわらず、初代は布教情熱に燃えたぎっており、生来の気性の激しさから、信者訓育に当たっても、男まさりの叱声を飛ばすことがしばしばだった。ご祈念の時、生半可な声を出していると、途中で突然くるりと後へ向き直って、
「そんなご祈念があるか!やり直し!」
 と叱責するほどであった。信者も修行生もいつもピリピリしており、廊下ですれ違おうものなら、寒気が走ったほどだという。
 そのような雰囲気の中、父は初代のいかなるとがめ、叱声にも顔色一つ変えることなく、口答えをするということもなかった。一度は何が原因だったか、初代が父の頬を手形がつくほど.ピシャリと打った。その時も、ただ静かに、
「相済みませんでした」
 と詫びるのみであった。初代の先生の強烈な信心と祈念力、すさまじい教導ぶりと救済活動を、父は傍にあって支え、またひた受けに受けて、わが信心の糧としていった。
 初代を立て仰ぐ在り方は、すべての道の先輩に対しても一貫して取り続けた態度であり、「基」を大切にする、根本をおろそかにせぬ、恩を尊ぶということが父の信心の根幹になっていた。

(つづく)