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モロの部屋
モロ先生からのメッセージや行事の様子などなど、随時更新して行きます。
お楽しみください。
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道行く人へのメッセージ

講演録
南風に吹かれて


金光教は、すべての人が助かってほしいという天地の神の頼みを受けて教祖・金光大神が幕末の1859年に取次を始めたことから起こりました。
その教えは、人間は天地のはたらき(神の恵み)の中に生かされて生きており、その道理に合った生き方をするところから、幸せな生活と平和な世界を築くことができる、と説いています。
世界の平和とすべての人の幸福、一人ひとりの人生の成就を願って、この教会はすべての人に門戸を開いています。いつでも自由にお入りください。
南風に吹かれて

カンボジア (上)

 一九九三年一月、初めてカンボジアの地に降り立った。十一月頃から四月頃までが乾季というが、むっとする南国特有の空気が全身を包んだ。首都プノンペンのポチェントン空港はほとんど土の広場という感じで、管制塔にはシアヌーク国王の若き頃の巨大な肖像画が掲げられていた。タラップを下り、飛行機の下に降ろされた自分の荷物をがらがら引っ張って土間の粗末な建物に入り、入国手続きをした。係官はいかにも不慣れな感じで、パスポートとビザ申請書を渡すとカウンター内に並ぶ七、八人に順送りされた。パスポートナンバーが手書きでノートに書き付けられ、最後にパスポートの自分の写真がかざされると、15米ドルを払って受け取った。
 車で町の中心に向かう道中、「アジア」を感じさせる雑踏と喧噪のなか、赤土のほこりが舞いあがる。街道筋の露天商では果物などさまざまなものが売られていた。大きな空き瓶にジュースのように見えるバイク用の燃料を入れて売っているのには驚かされた。
 カンボジアは二十年もの内戦ののち、国連による暫定統治のもと、総選挙の準備をしているさなかで、あちこちに大きくUN(国連)と書かれた車が氾濫していた。四年間にわたるポルポト政権時代には知識階層を中心に二五〇万人ほどの人が虐殺されたという。四人に一人が殺されたことになり、だれしも身内に犠牲者がいた。かれらは滅多に自己主張も反論もしない。こちらの言い分に対して、とろけるようなクメールの微笑みをたたえて、「それが良いと思います」と応答する。相互に密告する監視体制のもとで生き延びた人びとだから、面従腹背は当然なのである。それぞれに思い出したくない悲惨な経験がある。中には、自分が生き延びるために密告をする側にまわり、心に深い傷をもった人もいるであろう。夫が妻を、妻が夫を、さらには子が親を密告する場合もあったのだという。
 一九九〇年頃、カンボジア難民を支援しようと日本に多くのNGOが生まれた。カンボジアが日本のNGOを生み、育てたという言われ方をすることもある。ポルポト時代、人びとは自分の住んでいる場所を追われ他所で集団生活を強いられた。家族や共同体がずたずたに分断されたのである。新しいカンボジア政府の急務は、知的階層のいなくなった国家に必要最低限のシステムを作り上げることと、共同体を回復することだった。
 プノンペンに着いてまず、あるNGOを訪ねた。名前と住所を頼りにあちこち聞きまわったが、なかなか行き着かなかった。まだ住所そのものがうまく機能していないようだった。郵便はだいたい局留めだったし、そもそも郵便局というものが市内に一つしかなかった。そこで出した日本宛ての郵便がついに届かないこともあった。電話は線を敷設したとたんに盗まれるという。日本のNGOの人たちを招いて夕食会をしたときも、現地滞在中の人がバイクで連絡してまわった。電話のない生活、それがふつうだった。
 やっとたどり着いたNGOの責任者にバッタンバンに行く予定を伝えたら、あそこはきな臭いからやめた方がいい、と止められた。周囲にはまだポルポトが支配する地域があるからだ。治安はすこぶる悪かった。夜になると走行中のバイクに向けて発砲し、殺して盗む元兵士がうようよいるのだという。プノンペンでも夜な夜な銃声を聞いた。アンコールワットのあるシェムリアップへ行った時、空港で一緒になった国連兵士に、砲声を聞くことがあるか、と尋ねたら、「目の前に砲弾が飛んでくるのを毎日見ているよ」と答えた。
 私は、思いがけず、その時から十年間毎年この国を訪ねることになった。一年一年、みるみる変わって行くのを目の当たりにした。数年にして電話線もケイタイもパソコンも普及した。一日二時間程度の電気の配給も、年々停電が少なくなった。シクロという人力三輪車はバイクに取って代わられた。すさまじい変化がこのカンボジアで起きた。それは、あたかも、コマ撮りした写真を映画にして見るかのような、超高速の変容であった。