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モロの部屋
モロ先生からのメッセージや行事の様子などなど、随時更新して行きます。
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講演録
南風に吹かれて


金光教は、すべての人が助かってほしいという天地の神の頼みを受けて教祖・金光大神が幕末の1859年に取次を始めたことから起こりました。
その教えは、人間は天地のはたらき(神の恵み)の中に生かされて生きており、その道理に合った生き方をするところから、幸せな生活と平和な世界を築くことができる、と説いています。
世界の平和とすべての人の幸福、一人ひとりの人生の成就を願って、この教会はすべての人に門戸を開いています。いつでも自由にお入りください。
南風に吹かれて

ガザ地区
 

 どこの国の難民キャンプを訪ねても、かれらの貧しく劣悪な生活環境、食事の粗末さには胸が痛むが、イスラエルのガザ地区ほど鮮烈で、絶望的な思いにさせられた場所はなかった。世界中でも、この地域ほど「政治」というものを日常的に、生活のあらゆる面で感じざるを得ない場所は他にないだろう。南北問題が集約されているようにも思えた。
 ガザ地区は、イスラエルとアラブ諸国との中東戦争の結果、パレスチナ人たちが囲い込まれた地域である。同じ土地をユダヤとアラブが奪い合い、軍事力の勝者が敗者を押し込めた。住民のほとんどはアラブ人だが、イスラエル政府の方針でガザ地区にもユダヤ人が入植し、豪勢な住宅を建設し始めた。パレスチナの民とのあまりのコントラストに言葉を失う。ガザは東西十キロ、南北四十キロの細長い地中海に面した海岸地域で、荒涼たる砂漠地帯である。周囲は高い鉄条網で囲まれている。唯一の出入り口ではイスラエル軍が検問している。警備は厳格を極め、銃を構える兵士たちが徹底的に調べる。パレスチナ人はこの地域の外へ出る自由はない。イスラエル政府から外部での勤務許可を得た人のみが外へ出ることを許される。それも、イスラエル側の一方的な措置でしばしば取り消される。
 ガザ地区へは一九九一年と九二年の二度行った。九一年は湾岸戦争直後のことであり、極度に緊迫していた。国連が出迎えてくれるはずだったが、検問所にはイスラエル軍の民生部が待っていた。私たちの訪問目的はパレスチナ難民の生活実態に触れることだったのだが、政府当局は拒絶したのであろう。検問所で若い女性兵士がわれわれのバスに乗り込んできた。日本語がわかるかも知れないのでイスラエルの嫌がる言動を取らないように、とリーダーから注意があった。彼女は、私たちがガザを出ていくまで張り付ついて、じっと監視していた。バスの前後二台ずつ機関銃を装備したジープにより警護された。軍の民生部本部へ案内され、司令官の講義をうけた。七〇万人の人口(現在は百万人余)のうち六割が難民であること、仕事は安いが住民はよく働くということ、政府は難民の自立に努めていることなどが語られた。そして、ユダヤとアラブは共生しなければならない、とも語った。だが、説明のあと、難民キャンプを通ってガザ地区から体よく追い返された。
 九二年の時は国連のバスでガザ地区内の案内と説明をうけた。八つの難民キャンプのうち最大のジャバリアキャンプに通りかかった時のことである。トタン屋根の粗末な家々が密集する中に子供たちがあちこちに群れていたが、いきなり石が飛んできた。ここは八七年にインティファーダが始まった所である。イスラエルの攻撃と抑圧に対する抵抗運動として、子どもが投石する。機関銃や戦車に対抗して投石する少年の報道写真は世界の世論に衝撃を与えた。イスラエルに対する批判が起きた。パレスチナは爆弾テロとは別の威力をもつ青少年による投石という戦法を取るようになる。子どもが戦争の道具にされる!何と恐ろしいことか。その報復として、イスラエル軍は子供も大砲の標的にする。
 子供たちは、憎悪と報復を物心ついた頃から教え込まれ、闘争が再生産されるのである。イスラエルを支援するアメリカをパレスチナの人々は憎む。難民キャンプといえば、どこも子どもがあふれており、その明るい笑顔とキラキラした瞳に、「日本のこどもたちにはない表情だなあ」と感ずることが多かった。しかし、ガザは違う。かれらの瞳はガラスのように冷たく無表情か、もしくは敵意に満ちていた。自由のない人生とは、こんな子どもを作り出してしまうのか。共生か死か、そんな選択しかないかのようであった。昨年のアメリカへのテロ以来、双方の攻撃はエスカレートするばかりだ。逆に、共生を求める双方の青年の動きが生まれている。それが大きなうねりとなって、この地に平和が実現することを祈ってやまない。