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講演録
南風に吹かれて


金光教は、すべての人が助かってほしいという天地の神の頼みを受けて教祖・金光大神が幕末の1859年に取次を始めたことから起こりました。
その教えは、人間は天地のはたらき(神の恵み)の中に生かされて生きており、その道理に合った生き方をするところから、幸せな生活と平和な世界を築くことができる、と説いています。
世界の平和とすべての人の幸福、一人ひとりの人生の成就を願って、この教会はすべての人に門戸を開いています。いつでも自由にお入りください。
講演録

わが魂の叫び ー助かりたい・助けたいー

田 中 元 雄

わが魂の叫び ー助かりたい・助けたいー
A CRY FROM THE SOUL -wants to be saved, wants to help-
2003/11/16


●阪神大震災
 
 今から約9年前、阪神淡路大震災が起こり、6000人以上の人が亡くなった。
 私は緊急援助品を持って、全壊状態の神戸の教会を訪問した。その時、私はただ祈ることしかできなかった。私は、家がこんなふうに壊れるのか、とびっくりした。木造家屋が玩具箱のようにひっくり返り、二階建ての家の一階が潰されて一階建てのようになっていた。大きなビルが倒壊し、あるいは大きな亀裂があり、あるいは歪んでいた。
 大地が大きく切り裂かれているのは何カ所も見た。ある商店街では、道の右側の建物は全部建っているのに、左側の建物は全壊しているというようなところもあった。

 ある金光教の教会の前で人々に温かい食べものをserveしながら、被災者から、体験談を聞いた。女の人は、「すべてを失ってしまいました。なぜ私だけ?」と涙を流しながら語った。あちこち家は壊れているが、確かに、自分の家で暮らせる人の方が多いのである。
 ある商店主は、自宅も店も潰れてしまった。「たいへんですねぇ」と私が慰めると、彼は「いえ、家族という一番大切なものが残りましたから」と笑顔で答えた。同じような事態でも、うけとめ方は人さまざまである。


●思いわけ

 震災後、神戸の中心にある公園に「希望の灯り」という記念碑ができた。永遠の炎が燃えており、その台座に詩が刻まれている。
「震災が奪ったもの
 命 仕事 団欒 街並み 思い出」。
さらに、
「震災が残してくれたもの
 やさしさ 思いやり 絆 仲間」。
 地震が奪ったもの、残してくれたもの、そのどちらも本当なのであろう。そこには、思い分けが必要になる。

 金光大神は、「何事もわが心で良きことになる」「おかげは和賀心にあり」と教えられた。
 その教えを受けて、信心するということは、「良いものを見、良いことを聞くことだ」と語った先覚がいる。それは、自分にとって都合の良いものだけを見、都合の良いことだけを聞くということではない。どんなことでも、ふつう人が良いとか悪いとかいうそのどちらも、良い方へ良い方へと見ていく、聞いていくということである。神さまは、人が助かるように助かるように働きかけておられるのだから、どんなことの中にも神様のメッセージがあるはずなのである。
 「難はみかげ」


●人間は助け合って生きていくもの

 東京の大学に通っている間、大崎教会に参拝していた女子大生が、実家が被災したので、神戸に帰っていった。数ヶ月して戻ってきたが、彼女はこのように言った。
 「一杯の水がどれほど貴重で有り難いか、ということがよく分かりました。トイレに行っても流す水が必要です。近くの川に水汲みに行くのが日課でした。飲み水は命です。これは給水車に貰いに行きました」
 水を飲むという、ふだんほとんど意識をすることもないことがいかに有り難いことであるか、それが手に入らなくなって初めて意識したというのである。お風呂に入ることが出来たときは、ほんとにこの世の極楽だと思ったという。
 彼女は続ける。「生活は不便で大変だったけど、楽しくもあった」という。ふだん挨拶をする程度の付き合いのご近所の人たちと、乏しいものを分かち合いながら、助け合いながら、共同で作業をしたりして、自分自身が生きいきとしてきて、うれしかったんだという。「ああ、人間って、助け合って生きていくものなんだなあ」と、助け合うことによって生きいきしてくるという震災前にはあり得なかったことを体験して、人間が生きる原点のようなものを見た気がする、ということだった。

●有り難い

 緊急事態の時、人間はありとあらゆる虚飾をはぎ取られ、赤裸々な生まの自分がむき出しにされる。何が大事で、何が飾り物なのか、ということも見えてくる。
 震災被災者たちは、水が出たとき、異口同音に「ありがたい」と叫んだ。
 「有り難い」の原義は、有ることが難しい、滅多にないこと、である。水があるのをあたりまえだと思っている。それが、実はあたりまえではなかった。有り難いことだった。
 みんな、「もう余計なものは要らないと思うようになりました」と言った。極限からみると、私たちはもろもろの粉飾に惑わされ、よけいなことで悩み、不必要な物をためこんだりしているのである。


●あたりまえ

 一九九七年、バブル経済崩壊が日本社会全体にさまざまな形をとってあらわれた。大型企業倒産に人びとは驚いた。社員とその家族たちは路頭に迷わされることになった。だが、ある証券マンの妻は言った。「しあわせとは何なのか、ということがよくわかりました。本当の幸せとは、海外旅行をすることでも、高級なレストランで食事をすることでも、何か楽しいところへ出かけることでもないんです。家族がそろって、元気で、笑いながら食卓をいっしょに囲めるということなんです。今まであたりまえと思っていたことこそが、もっとも大切なことだったんです」と。
 金がなければ不幸せ、旅行に行けなければ不幸せというとらわれから解き放たれてみると、日常のさまざまなあたりまえが幸せの源泉だった、幸せそのものだったということに気づくのである。

 「あたりまえ」という詩がある。癌を患って、死と直面することによってつかみ取った人生の真実が描かれている。

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
 なぜでしょう
 あたりまえ
             (井村和清著『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』より)

●カンボジア

 私は、カンボジアに、1993年から8回、NGOプロジェクトを推進するために訪れた。
 カンボジアは20年間の内戦を経て、今ようやく国としての形を作ろうとしているところである。ポルポト独裁による知識階層の殲滅という人類史上極めて異例な大虐殺で200万人以上の人々が殺された。自分の命の保証を得るために妻が夫を密告し、夫が妻を密告し、子が親を密告するというような恐ろしいことが行われ、共同体は崩壊し、家族は分断された。未だに全土には推定1000万個の地雷が埋められ、雨季には水に浮く軽量爆弾が漂着して、無いはずの自分のたんぼで地雷に飛ばされて足をなくす主婦が後を絶たない。
 インテリ階層の人たちがほとんど殺されてしまったために、国家の形を作るのは道のりが遠い。そこで、私は、NGO団体の力を借りてカンボジアの田舎の最も貧しい小学校で週に一度の学校給食から始めた。国の将来のためには教育が大切であり、その環境を少しでも整えたいと思ったのである。金光教平和活動センターを通して奨学金、散髪、生活改善のための資金貸し付けなどのプロジェクトを推進している。
 そこでも思うことは、大国の力を背後に、政治権力が弱い立場の人々の命を奪い、生活を圧迫し、人生を歪めているということである。日本も加害者であり、私も加害者なのである。

●虐殺の現場

 カンボジアへ行くとき、必ず訪れる場所がある。ツールスレンという虐殺博物館とキリングフィールドという虐殺の現場である。
 ツールスレンは高等学校がそのまま刑務所となり、そこでひどい拷問と虐殺が行われ、すべての収監者と殺されたときの残虐な死体の写真が延々と壁に掲げられている。床には凄惨な血痕がいまだについており、なまなましい。
 キリングフィールドには、髑髏が塔の中にうず高く積まれている。また、血の付いた衣服が山積みにされている。
 そこへ行くたびに、人間はなぜこのような愚かなことが出来るのか、考え込まざるを得ない。「助けてくれー!」という悲痛な叫びを聞く思いがする。カンボジア人はクメールの微笑みと言って、顔を見合わせると、こちらがとろけるような笑顔を見せる。従順で温厚で平和的な彼らに、なぜあのような残虐な殺人ができたのか。
 かれらばかりではない。どんな人間にも、そのような悪なる心と、神の心、善なる心が併存しているのである。震災の時にも、エゴイズム丸出しの人と、人への献身にわが身を削って惜しまなかった人たちがいたであろう。

●人を助けたい

 しかし、思い起こすのは、震災を特集した週刊誌のことである。AERAという週刊誌の表紙に「人を助けたい」と大書してあった。それを見たとき、「これだ!これだ!」と私は思った。これが人間の本当の姿だ、と。
 金光教の教祖・金光大神は「難儀な人を見て、その人を助けたいと思うのが人間である」と教えられた。「人を助けるのが人間である」と。
 震災を見て、じっとしておれない、と突き動かすものがわが内にある。それが神である。「人を助けたい」というわが心の内なる神の発動、これによって人が真実の人間となる。人を助けて、人は神になる。


●マザーテレサに会う

 私は10年前に、インドのカルカッタでマザーテレサに会った。当時82才だった。
 マザーテレサは、地球の膿みが吹き出ているところといわれるインドのカルカッタで、「貧しい人こそすばらしい」と言い切って、貧者に生涯を捧げ通してノーベル平和賞を受賞した現代の聖人だ。

 マザー・テレサはたいへん小柄だった。ブルーの三本線入りの質素な白木綿のサリーで身を包んで、足は裸足だった。栄養失調のためか、外反母趾で反り返った足指が痛々しげでした。顔の表情や立ち居振る舞いは肉体的な疲労を隠せなかった。「遠路はるばる日本からよくぞ訪ねて下さいました」と挨拶して下さった。三代金光様を思い出させるような神々しさだった。握手の手は労働の結晶を思わせる肉厚で力強いものだった。寄付をさし出すと、領収書に署名をし、「神の祝福がありますように」と書き加えた。ボランティアを申し出ると、「シスターに手配して貰いますから」と言われた。そして、風変わりな名刺をくださった。それには次のような、短いことばが印刷されていた。

沈黙の果実は祈りなり The fruit of SILENCE is Prayer
祈りの果実は信仰なり The fruit of PRAYER is Faith
信仰の果実は愛なり The fruit of FAITH is Love
愛の果実は奉仕なり The fruit of LOVE is Service
奉仕の果実は平和なり The fruit of SERVICE is Peace
       マザー テレサ Mother Teresa

●死を待つ人の家

 翌日、早朝ミサに参加した。マザーテレサはシスターたちの一番後ろでうずくまって祈りを捧げていた。その後、一時間ほど歩いて「プレム・ダン」(サンスクリット語で「愛の贈り物」の意)という看板のかかった施設に着いた。看板には「病人と死を待つ人々の家」と英語でも書かれていた。
 ズボンをたくし上げ、長いエプロンをして、さっそく病室の掃除から始めた。ベッドを部屋の隅に積み上げ、床に水を流し、汚物を椰子の箒で洗い流し、消毒薬を撒き、床を磨き、水で洗い流し、モップで拭く。汗だくになる。
 もう一方、動けない患者を抱いて銭湯の浴槽のような大きな水槽のもとへ連れて行って、立たせて服を脱がせ、水をかけ、石鹸で身体を洗う。おしりを洗うと、へばりついたものがゴワゴワになっていた。左手で身体をしっかりと支えたまま洗うのだから、自分もずぶぬれになる。
 労働は、洗濯、食事の準備、食べる手伝い、後かたづけと続く。かなりの肉体労働だった。

●金光大神体験

 何人もの身体を洗い、服を着替えさせるために動き回っていたら、一人の座り込んだ六十代くらいの老人と目が合った。目がしきりに何かを訴えている。かがみ込んで、「何がほしいんですか?」と尋ねた。手の平を頬にもっていってウーウーという。髭を剃ってほしいんだなと思って、安全カミソリを借りてきた。何十回も使ったと思われる使い捨てのカミソリで、ひどく切れが悪かった。水と石鹸と切れない錆びた安全カミソリ。頬をなでながら丁寧に剃った。老人は目をつむり、あごを突き出し、「気もちいい」という表情になった。
 その時、私は、不思議な感慨にとらわれた。そして、目頭が熱くなってきた。「生神金光大神様、生神金光大神様」と口の中でくりかえしお唱えした。金光大神さまの髭を剃らせていただいている、と実感したのである。
 「人間は神の氏子」と言われる。
 私たちは、いつも大いなる神の中に包まれている。神に見守られている。

 インドで、髭だらけの頬をさすりながら、肉体化した金光大神さまの髭を剃らせてもらいながら、私は至福の時を過ごしていた。
 そのように、私は、「人はみな神のいとし子」という言葉の重みをずしりと感じていた。マザー・テレサは、ただの一度でも人に愛されたという記憶をもって死ぬことができるように、そしてさらに言えば、「あなたはこんなに神さまに愛されているんですよ」ということを示したいがために、また死にゆく貧者という姿をとった神を愛するがために「死を待つ人の家」の実践を何十年も続けてきたという。私は、このボランティアの体験を通して、マザーテレサという人に本当に出会ったんだ、と感じた。

 私には、マザーテレサ体験が金光大神体験になった。
 日本から遠く離れた、時間的にも空間的にも遠く隔たったところで、金光大神さまを実感した。金光大神さまに出会った。そうした特別なときでなくても、金光大神体験は日常的にできるはずだ、と思うようになった。わが子の中に金光大神さまを見出す。わが妻の中に金光大神さまを感じ取る。そんなことができるのだと思うようになった。


●魂の叫び

 私たちは、あらゆる場面を通して、神様体験をすることができる。神様は、あらゆる場面で人を助けよう、助けようとしておられる。「わが心の神にめざめ 神を現す」。私たちは、人が助かるお役に立つ、という実践を通して、神様体験をすることができるのである。

 私たちの隣には、助かりたい、と叫ぶ魂がいっぱいいる。自分自身もそうだ。わたしのいのちが、魂が助かりたい、と叫んでいる。
 カンボジア支援に出向きながら、いつも教えられて帰ってくる。政治的、経済的にはどうしようもないほど遅れているかの国だが、日本人が置き忘れてきてしまった大切な何か、笑って助け合って生きる、というようなことをもっている。助ける者と助けられる者と、一方が一方的に助ける、一方が一方的に助けられる、ということはないのである。
 助かりたい、そう求める魂も、助けたい、そう願うわが魂も、わが本心の叫びなのである。

●人を助けて神になる

 ある新聞にこんな投稿記事があった。

 何だか理由はよくわからないけれど、「こんなはずではないのに」と、考え込むことがあります。家族を眺めても、社会を眺めても、政治を眺めても、何か物足りないものを感じて仕方ありません。もちろん、自分の生き方を眺めても同じです。なにか漠然とした憤りを感じながら毎日を生きているのです。これが、正直な自分の気持ちです。よくお年寄りが困っているのを見かけると、心の中で「助けてあげなければ」と思うのですが、そんな小さな勇気もなくって見て見ぬふりしてしまう情けない自分もいます。人間としてあたりまえのことをしたい、と心のどこかで思っているのです。しかし、そんな気もちとは裏腹に、何もできない自分がいるのです。本当に嫌になってしまいます。

 これを書いた人は、わが心の神にめざめかけているのだと思う。何だか分からないけれど、何かが自分の心の中でうごめいている、働き始めている。何だろう、何だろう、といぶかしがっているのである。
 自分本位に考えたり、人を蹴落としたりすると、後ろめたい気もちが湧き、良心がうずき、自己嫌悪に陥る。すばらしい生き方に触れると感動する。人に親切にすると、自分のいのちがよろこぶ。
 どれもが、天地のいのちに生きる自分が、わが心の神に促されておきてくる心のはたらき、いのちの叫びなのである。
 人間が人間らしく生きる、ということ、それはわが心の神が生まれるということに他ならない。わが心の神にめざめた者が、他者に対してその人の内に眠る神をめざめさせていく。
 鶏の雛が卵から殻を内側から突ついてかえろうとする瞬間、母鶏が外からちょんとくちばしでつついて誕生する。卒啄同時である。その人のなかで生まれよう生まれようとしている神の誕生を手助けする。そのことが、私どもの家庭でも、職場でも、友人関係でも出来ていくようでありたい。
 「人を助けて神になれ」とのみ教えを実践して、天地金乃神という大天地と、わが心の神・生神金光大神という小天地が響き合い、はたらき合って人は助かり、神の願いは成就する。

おわりに

 宗教は、人間が生きる究極的な意味を明らかにするものである。金光大神さまは、「私は、神様と人間との間柄の話をしているのである」と語られた。人生のいっさいを神と人との関係においてみること、神も助かり人間も助かるという、相互に支え合い、はたらき合うという「あいよかけよ」の相互関係をつけていくことが、神の願いであり、人間のしあわせであることを伝えておられるのである。
 神と人との関係を親子の関係にたとえて、神とは人間にとって親のようなもの、神にとって人間はわが子のようなもの。子あっての親であり、親あっての子である。
 親がなければ子は生まれず、また親は子が生まれたおかげで親にならせて貰う。同様に、夫婦、雇用者と被雇用者、商売人と顧客というようにどのような人間関係も、みなお互いがあって成り立つように、支え合っている。人間は、みな助け合って生きている。「あなたあっての私です」という考え方に立って、助かりたいと願っている魂が、同時に助けたいと願っている魂であり、助け合って生きていく世界になりたい。そうなることが神の願う理想の世界、神代である。
 わが子が助からねば親が助からないように、神は、人間が助からねば神も助からない、とおっしゃる親神である。人間が助かることが神が助かることである、と言われる親神なのである。

 神前拝詞に、「天地に生命ありて万の物生かされ 天地に真理ありて万の事整う かくも奇しきみ姿大いなるみ働きを 天地金乃神と仰ぎまつりて称えまつらん」とあるように、働きとしての神を説いておられる。そうした働きとしての神を、大天地とも表現されている。人間は大天地に生かされ、大天地の中身をなしている小天地なのである。大天地と小天地の根源は一つ。一つに働き合う中から、調和が生まれ、平和が生まれる。
 大天地の人を助けたいという悲願と、小天地の助かりたい、助けたいとの魂の叫びの響き合いが金光大神の求める道なのである。

 金光教の信仰の根本は、「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」ということである。その世界を実現することが目的である。
 神あっての氏子ということは、大方の人にとって理解し易いであろう。しかし、神は「氏子あっての神」と語りかける。「神だけでは人間を助けることができない」と言われる。人間が助からなければ神が助からない、と言われる。
 神は天地そのものであると共に、人間の心の中にある。
 人間の心に分け与えられた神は、我情我欲という殻によって覆われている。その殻を破ると中から本心の玉が出てくる。その玉を磨くと神が光り輝く。人間はダイヤモンドの原石のようなものだ。磨き上げることによって天地の光をうけて、きらきら輝く。
 人間に生まれた神によって、天地の神が人間世界に顕現する。
 金光大神という人格を通して神がその思いを人に伝えることが出来たように、私たちもまた、わが心なる神にめざめ、わが心の内からの叫び、つまり神の声を聴くことによって、世界の平和と人類の幸福を実現することができるのである。