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モロの部屋
モロ先生からのメッセージや行事の様子などなど、随時更新して行きます。
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道行く人へのメッセージ

講演録
南風に吹かれて


金光教は、すべての人が助かってほしいという天地の神の頼みを受けて教祖・金光大神が幕末の1859年に取次を始めたことから起こりました。
その教えは、人間は天地のはたらき(神の恵み)の中に生かされて生きており、その道理に合った生き方をするところから、幸せな生活と平和な世界を築くことができる、と説いています。
世界の平和とすべての人の幸福、一人ひとりの人生の成就を願って、この教会はすべての人に門戸を開いています。いつでも自由にお入りください。
講演録

心の平和・世界の平和

田 中 元 雄


●戦争終結60年
 今年は第二次世界大戦が終結して60年になす。
 私は昭和19年の生まれでして、東京が大空襲に見舞われたとき、私は母親の背中にしっかりとくくりつけられて、焼夷弾の降りしきる中を逃げまどったのは1才になって間もない頃のことでした。空襲警報が発令され、サイレンが町中に響くと、ろくにことばも発することのできない赤ん坊であった私が、「あっ、テータイテート」と言って大人たちを驚かせたそうです。
 そうして、8月15日を迎えるのですが、当時のふつうの人びとは、「あー、これでもう逃げなくていいんだ」とホッとしたと言います。夜も明々と電気を灯してもいいんだ、もう爆弾は降ってこないんだ、もう死ななくていいんだ、と。
 戦争のさなかは、死がいつも隣り合わせです。命が危険にさらされた状況から解放されると人間はホッとする。

レバノン
 1991年にレバノンの首都ベイルートに行ったときもそうでした。レバノンは16年間にわたる内戦が終結して半年という状況で、シリア軍が幹線道路で1qごとに検問所を設けていました。
 ベイルートは、中東のスイスと言われるくらい美しいリゾート地だった。それが、銃撃戦やダイナマイトで建物という建物が蜂の巣のように穴だらけで、町中ががれきの山でした。
 入国手続きをするとき、銃をつきつけられました。銃口を向けられて尋問を受けるのは余り気持ちのいいものではありません。
 お年寄りが、バスで移動中、おしっこがしたいという。「ガマンできませんか」「できません」「では停めますが、道の外に行かないで下さいよ。地雷で飛ばされる危険性がありますから」。降りたら、そばにいた兵士がカシャッと銃を構えました。
 ホテルから無断で一歩でも足を踏み出したら命の保障はできない、と言われました。
 そんなふうにして何日かを過ごし、国外に出たときは、ホッとして肩の力が抜けるのがわかりました。
 命が危険にさらされるというのは、想像を絶するストレスになる。戦時下にいる人びとは、爆竹の音がするとサッと地面に身を伏せます。
 イスラエルのエルサレムでは、戦後60年間、今でもいつ自爆テロが起きるかわからない中で暮らしています。レストランに入るとき、爆弾テロの被害をうけにくい場所を探して坐るといいます。

9・11テロ
 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きたとき、アメリカ人の言語学者・ノーム・チョムスキーは、「世界中の政権が、これを好機と捉えて、長い間温めてきたプログラムを実現させる可能性を開くだろう。すなわち、抑圧や横暴を強め、民衆が反対していた政策を実行するだろう」と述べました。そしてその予言通りに、ロシアはチェチェンで、中国は中国西部で、イスラエルはガザ地区で、インドネシアはアチェで圧政を強めました。
 そして、チョムスキーは日本について、「日本政府にとっては、世界の模範となるべき平和憲法を捨てるチャンスとなりました。このまま進めば、取り返しのつかない結果になってしまうでしょう」と語っています。

 為政者たちは、このテロを絶好の口実に使いました。そして新しい戦争を始めました。
 アメリカは一気に愛国主義に沸き立ちました。
 そんな中、ニューヨーク・タイムスに、息子をテロで殺された両親が「復讐しないでください。反省しましょう」と訴える次のような一文が掲載されました。

 (前略)
 (テロに対して)復讐が行われれば、遠い国の息子や娘、親や友人を死なせ、苦しめることになるでしょう。私たちの悲しみをさらに深めることになります。それは進むべき道ではありません。それで息子の死の恨みを晴らすことにはなりません。どうか、私たちの息子の名において復讐することはやめてください。
 (中略)
 深く悲しみ、省み、祈りましょう。
 (後略)
                   フィリス&オーランド・ロドリゲス

 心が痛みますが、自国に反省を促している叫びが胸を打ちます。
 「殺すな。祈ろう」と訴えています。アフガンやイラクを攻撃することは、遠い国のわが子や友人を殺すことになるというのです。わが子を死なせたその苦しみをもう一度味わうことになる、と。敵を懲らしめるのではなく、私が痛いのだ、と言っています。平和を祈るということは、他人事では済まされないのです。イマジネーション、想像力を豊かにして、テレビ映像のミサイルが飛んで行ったその着弾点に、わが子がおり、わが親がおり、わが恋人がいることを思う心の力がいるのです。
 ロドリゲスさんは、「殺さないでください。祈りましょう」と訴え、憎しみの連鎖を断ち切るには、許す、反省する、祈るということが道を開くことを教えてくれています。
 平和を祈るということは、いばらの道を歩むことなのです。

憲法第九条
 広島の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。同時代を生きた者はすべて戦争の当事者であり、被害者であり、加害者であります。
 従って、アメリカは、無差別に民間人を大量に殺戮したその過ちを悔いているのだと信じたいのですが、それはともかくとして、日本政府はアジア諸国への侵略と人びとへの抑圧を悔い、日本人はその戦争を食い止め得ず、自らも銃をもって人びとを苦しめたこと、そしてその結果として人類発の被爆を招いた過ちを悔いて、二度とくり返しません、と誓っているのだと思うのです。
 その誓いが憲法第九条となって、もう私たちは二度と決して戦争はしない、銃をもって人を殺すことはしない、と決意したはずなのであります。

●ご神願

金光大神さまは、1868(明治元)年、神からの指示により、「天下太平 諸国成就 奉祈念 総氏子身上安全」という幟を立ててそのことを日に日にご祈念なさいました。

 「世界が平和であるように、世界中の人がすべてしあわせであるように祈念し奉る」という文字を幟に染め抜いて、その幟を立てて日々祈念しなさい、というご指示をいただかれたんですね。それが、教祖様が生神金光大神というご神号を頂かれたその日のお知らせです。
 生神金光大神というご神号とその働きとして、世界平和・総氏子身の上安全というご神願を担うということが一つのことになっている。
 生神金光大神差し向けという内容は、平和をもたらす、万民を救済するということである、ということができるのではないか、と思います。
 その祈りは、そのとき以来、連綿と今日に至るまで続けられている。神前拝詞の中にも。

 <平和の概念>
 平和というのは、ただ戦争がないことだけをいうのではないのですね。皆がしあわせに生きられること。人間が人間らしく生きられる状態を生み出す営みのことだといえましょう。もっと言えば人間が助かる。

南北問題
 東西冷戦構造が崩れ、資本主義対共産主義というイデオロギー対立による戦争は無くなりましたが、民族問題、宗教問題のからむ地域紛争、テロ、そして経済格差から生ずる南北問題が噴出してきました。

世界がもし100人の村だったら
 『世界がもし100人の村だったら』という詩をご存じでしょう。これはインターネットのメールで世界中に知られた作者不詳の文章で、日本でも池田香代子さんが本にしました。

世界には63億人の人がいますが、
もしそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。

すべてのエネルギーのうち
20人が80%を使い
80人が20%を分けあっています

75人は食べ物の蓄えがあり
雨露をしのぐところがあります
でも、あとの25人は そうではありません
17人は、きれいで安全な水を 飲めません

南の国の貧困
 世界各地の難民キャンプや、カルカッタやカンボジアなどの貧しい人たちの貧しさといったら、ほんとうに貧しい。その貧困たるやすさまじい。

 かつて世界中のマスコミがアフリカを救え、と言っていた十数年前、飢餓の実際にふれた人の話を知って、背筋が凍る思いをしました。
 おなかだけがゴムまりのようにふくれ、あとは骸骨そのままの子供たちの眼についての話です。煮立ったお湯の中に生ま卵を落としたとき、白くぶよぶよっとなる、子供たちの目がまさにあんな感じだったというのです。その目がどろっと流れ落ちる。やせこけた小さな顔に残っているのは、黒く口をあけた眼孔だけ。骸骨そのままの目玉が流れてしまった顔。
 この光景には、これまでありとあらゆる人間の悲惨さを体験してきた百戦錬磨の赤十字のベテラン看護婦も失神したといいます。

 今、世界には五億人の飢餓の人たちがいる。
 そんな中、私たち日本人は、世界中から食べものを買いあさっている。日本とアメリカを筆頭とする「北」の金持ちの国の中産階級の女性が、一年間で、約一兆円相当もの食糧を捨てているという。世界中から買いあさっておきながら、大方は手つかずのまま、捨てているというのです。日本人一人一人はぶくぶくに飽食しておいてダイエットに走る。もう一方で一秒間に二人のこどもが飢え死にする。
 国連によれば、この大ムダ使いの筆頭は家庭である。次に、学校給食とレストラン。この金が有効に使われれば、アフリカのすべての飢餓は解消され、こんご飢餓難民を出さずにすむ立派な食計画プログラムを作ることさえできるというのです。
 我々がかれらを餓死させたといっても過言ではない構造が出来上がってしまっています。これが、いわゆる「南北問題」です。

 東マレーシアのボルネオ島の北の方サラワクの熱帯雨林が凄まじい勢いで破壊されています。根こそぎ伐採するので、熱帯雨林が再生不能になっている。
 伐採された木は、コンパネやカラーボックスになる。あるいは紙になる。ティッシュペーパーやトイレなどの使い捨てのペーパータオルやコピーの紙になる。今燃やすゴミのうち60%は紙ゴミだそうです。それが燃やされて、地球温暖化を進めている。
 その木を伐採するのに日本のODAが加担している。伐採した木の60%が日本に輸出されている。
 熱帯雨林が地球上にどれほどの働きをしているか。森は酸素を放出してくれます。水をしっかり保ってくれます。熱帯雨林のおかげで私たちはおいしい空気を吸い、地球の温度や湿度を保ってもらっているのです。それがどんどん破壊されている。アマゾンのジャングルを上空から見ると、虫食い状態に開発が進んでいる。それが世界規模の異常気象を生んでいると言われています。環境破壊はすべてのいのちに対する殺戮行為です。当然、人間にもはね返ってくる。

ライフスタイル
 私たちの日常、食事をする、紙を使う、ガソリンを使う、電気を使うということもそうなのですが、日本人一人の平均エネルギー使用量は、第三世界の人たちに比べたら何十倍とか何百倍とか桁違いなのですね。使わないということは無理だけど、ほんの少し、より少なく使う、より少なく食べるということからも世界とつながっていくことができます。
 われわれの1円は南の国では桁違いの価値になる。一食一円。それで食べ物や薬になる。

 さだまさしの歌っている「風に立つライオン」という曲があります。アフリカに行った日本人のお医者さんが昔の恋人にあてた手紙のスタイルをとった歌です。

○さだまさし「風に立つライオン」の歌を聴く。

 歌の中に「この診療所に来る患者たちは、確かに病気だけれども、少なくとも心は僕より健康なのですよ」というフレーズがありましたね。そして耳に残るのは「残念ながら、やはり日本はどこかで道を間違えたようですね」というフレーズです。

●ボートピープルを見捨てる日本

 ベトナム難民のボートピープルが日本に盛んにやって来ていた頃、こんなことがあったそうです。
 ボートピープルは、平均して7,8回、海賊に襲われるという。食べものは奪われ、金目の物は奪われ、女性は暴行をうける。数回目になると奪う物がないので、金歯を歯茎ごとえぐっていく。それでも取れないときには、顎ごとナイフでえぐり取るという。

 何日も漂流して、嵐に遭い、食糧も底をついて、舟の底から水が上がってきて、舟が沈没して全員が海の藻屑になるのは時間の問題だった。もうみんなが死を覚悟していた時、突然小舟の中が騒然とした。
「船だ!  船がくる!   助かったぞ!  おーい、おーい!
 大きな立派な船が、信じられぬ力強さと速さで近づいてくる。
 私たちはみな、泣き、笑い、抱きあい、手を振り、船に向かって叫びつづけました。
 おーい、おーい!
 船は近づき、甲板の上にはかなりの人だかりが見えました。
 彼らはたしかにわれわれを見ていたと思います」
 しかし、船は難民たちのそばを通り過ぎていってしまいました。その船には日の丸の旗がなびいていたそうです。

 日本の商社は、難民を見ても救うな、という指令を出していたと言います。そうとしても、船の甲板でボート・ピープルを見ていた人たちの心は疼いたと思います。「助けたい」、そう思ったに違いありません。わが心の神は、「助けよ」そうささやいたに違いないのです。しかし、集団の力は、神のささやきを抹殺してしまった。
 私たち、「日本丸」に乗る日本人は、この船に乗ってボートピープルを甲板から見おろしていた人々とどう違うといえるでしょうか。


●平和を祈る中身として 本教のキーワード

<1> 心の鬼

 金光大神は、「一心を立てれば、わが心に神がおられるから、おかげになるのである」(222)というみ教えと同時に、「用心せよ。わが心の鬼がわが身を責めるぞ」(信心の心得24)とも警告しておられます。

 カンボジアでは、ポルポト政権のクメール・ルージュが150万人とも200万人ともいわれる人びとを虐殺した。カンボジア人はクメールのほほえみと言って、ニコッと笑うとこちらがとろけてしまうほどのすばらしい笑顔をする人たちで、性質も温厚でやさしく、親切です。そのかれらが、なぜあんなにも残忍な殺戮をすることが出来たのか。これは未だに謎だと言われています。
 しかし、われわれ日本人も、礼儀正しく、おとなしく、控えめで、親切だと言われてきたが、大戦中、アジア諸国で豹変した経験をもっている。人間はだれしもクメール・ルージュになり得るし、ナチスになり得るのです。
 人間はいつも、わが心の鬼をかかえ、その鬼がいつ暴れ出さないとも限らないということを見つめておく必要がある。

 正義はわれにあり、と言っている人間がもっとも危うい。
 誰の心の中にも神があり、鬼がいる。
 己が心の鬼に向き合えた人、金光大神のように「凡夫相分からず」という凡夫の自覚に立てた人が、人の神心を見出すことも出来る。

<2> 人間は神の氏子
 すべての人間は神の氏子である、というみ教えは、平和を考える上で極めて大切な人間観です。神の子であるということは神になるというか、もうすでに神です。
 どの人間もかけがえがない。63億という数字に置き換えられるものではない。多少の犠牲はしょうがない、というわけにはいかないのです。
 いかなるいのちもかけがえのない神の子なのですから。殺し、殺される関係などあって良いはずがありません。

 片島せん師が神さまから種々修行を受けておられるとき、「長崎を見せてくだされ」と願われると、市街の光景が現れ、次いで広々とした水が見え、これが玄界灘ぞと教えられた。そのとき、ちょうど日露戦争の最中だったので、「戦争を見せてくだされ」と願われましたが、「戦争はあわれで見ていることができぬ」とおっしゃってお許しにならなかったということであります。
 神も目をそむける悲惨の極み、それが戦争です。
 だからこそ、金光大神に世界の平和と人類の幸福を祈願する幟を立てて日々祈念しなさい、とお命じになったのだと思います。

<3> 五本の指
 金光大神は、多様性の統一の大切さを説いておられる。
 すべての人間はかけがえのない神のいとし子です。それは、ちょうど五本の指がそれぞれ、長さも太さも向きも違っていて、その違いがあるからこそ、一つの手として機能する、ということを語っておられます。

中東ー私の存在は矛盾 
 中東を訪問したとき、イスラエルに住むアラブの人が、「私はイスラエル人だけどユダヤ人ではない。アラブ人だけどイスラム教徒ではない。クリスチャンだけど多数派のコプト教徒ではない。そのように私という存在そのものが矛盾にみちている。中東という地は、様々な矛盾が入り乱れている場である。そんなこの地で、みんながみんな、自己主張をし、他を排斥したら滅亡するしかないだろう。われわれは、他を認め合い、共存共生する以外に生きる道はないのだ」と語りました。

 われひと共に生きる、これが人類にとって不可欠なあり方なのであり、そして今こそその生き方が強く求められているのだ、ということを改めて思わされました。

 異質なるものへの相互理解と相互協力が世界平和を生む。
 人間はもともと異なる文化土壌に生まれ育つから、異なる価値観を持つのは当然である。

 共生を成り立たせるのは、すべての人間はかけがえのない存在である、という思想と、多様な価値観を尊重することが人類の調和にとって不可欠である、という思想です。

 共生は、お互いの違いを認め合うところから出発するのである。お互い、神のいとし子同士、という一点においてのみ同じなのであり、平等なのである。

<4> あいよかけよ
 国際宗教学会 「多様性の中の統一」
 今年の3月下旬、一週間にわたって1,500人もの宗教を研究する世界中の学者が集まって5年に一度の大会(第19回国際宗教学宗教史学世界大会)が東京で開催されました。
 宗教が平和をもたらす面と対立をもたらす面とが種々に議論されました。
 私も、多くの学者に混ざって、金光教はなぜ国際協力をするのか、と問われて発表しました。その中で、次のように申しました。

 国際協力は、布教ではなく、献身です。単なる救済ではなく共生です。「分かち合う」関係は、南の国に対しては、恐怖と欠乏・貧困をなくすための努力になるし、北の国に対しては、精神的な貧困と孤立、疎外感をのりこえる努力につながります。「分かち合い」は「助け合い」になるのです。

 平和のためには、世界が共生の思想を共有する必要があります。
 つまり、本教のことばで言えばあいよかけよです。お互いに、支え合い、許し合い、補い合い、学び合い、分かち合い、助け合うのであります。

<5> 天地書附

天地は語る 113
「今月今日で一心に頼めい。おかげは和賀心にあり」という見識を落としたら世が乱れる。
                           (市村光五郎)

天地書附の見識を落としたら世が乱れるぞ、と言われる。

 和賀心の「和」は平和の「和」です。調和の「和」、講話は(戦いをやめること)という意味です。
 和というのは、足し算の合計の答えのことですね。人類の総和が平らかであるように、ということが平和ということです。総氏子、世界中の人に思いをいたす、という願いのこめられたことばだと思います。

 賀は原義はよろこぶということです。今では賀正の賀、祝賀の賀と、主に祝うという意味に使われます。賀は貝の上に加えると書きます。財産を積み上げてよろこぶという意味らしいのですが、私は少し深読みしたいです。
 自分のもっている財産を人に差し上げて喜ぶ、というように。人と富を分かち合って喜び合うというように受けとめたいです。人の喜ぶことをしてわが喜びとする。人を助けてわが喜びとする。

 イスラムの世界では、「ザカート」(喜捨)といって、貧者にお金を施すことによって天に富を積むというような信仰がある。

天地は語る 385
寒い日であったが、お参りの途中で気の毒なおじいさんに遭い、かわいそうに思って、着ていた物を脱いであげた。それからお参りすると、金光様が、「今日は結構なおかげを受けたなあ。不幸せな者を見て、真にかわいいという心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である」と仰せられた。 (尋求教語録)

心の平和・世界の平和
 心の平和は天地書附の「和賀心」から生まれます。平和な心は和賀心、つまり神心です。
 世界の平和は神代の出現を祈る実践から生まれます。平和な世界は神代の出現によってもたらされます。

 「世界が平和でありますように」という祈りではなく、「世界が平和になり、すべての人が幸せになることができるように、そのために私を役立たせてください」というのが神前拝詞の「成就せしめ給え」という祈りなのです。

世界がもし100人の村だったら
 『世界がもし100人の村だったら』という本は、次の文章でしめくくっています。それを私のお話のしめくくりにしたいと思います。

もしもたくさんのわたし・たちが
この村を愛することを知ったなら
まだ間に合います
人びとを引き裂いている非道な力から
この村を救えます
きっと

 

                  (京都にて 2005年6月18日 第1回東近畿教区平和集会 講演)