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モロの部屋
モロ先生からのメッセージや行事の様子などなど、随時更新して行きます。
お楽しみください。
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道行く人へのメッセージ

講演録
南風に吹かれて


金光教は、すべての人が助かってほしいという天地の神の頼みを受けて教祖・金光大神が幕末の1859年に取次を始めたことから起こりました。
その教えは、人間は天地のはたらき(神の恵み)の中に生かされて生きており、その道理に合った生き方をするところから、幸せな生活と平和な世界を築くことができる、と説いています。
世界の平和とすべての人の幸福、一人ひとりの人生の成就を願って、この教会はすべての人に門戸を開いています。いつでも自由にお入りください。
講演録

光り輝く魂

金光教大崎教会長 田中元雄


 どなたにも、布教功労者報徳祭並びに金光鑑太郎君十五年祭によくご参拝になられました。教主金光様のご祭主のもと、ご祭事が執り行われますことは誠にありがたいことです。
 私どもは、霊神様あっての私どもであり、霊神様のご信心あってのおかげです。一本の大木に例えれば、霊神様は土中の根のように、目に見えないところで私どもを支えてくださり、滋養を与えてくださっています。同時に、私どもの助かりや繁盛が、霊神様の助かりであり、喜びでもあります。

四代金光様のみ教え

 四代金光様のことで忘れられない思い出があります。
 私が教師に任命を頂いて間もない、昭和四十年代の中ごろのことです。高校生年代の準看護学生たちが十人ほど、研修のために修徳殿に入殿したことがあります。そのお世話に当たっていた私に、引率の先生が「金光様からお話を頂きたい」と言われました。
 全員そろってお広前に参り、お結界に座られている四代金光様の前に進みますと、金光様がみんなの顔を見わたして、やおら、「ダイヤモンドと雑巾と、どちらのほうが値打ちがあると思う?」とお尋ねになりました。準看護学生の少女たちはきょとんとした顔になり、「そんな当たり前のことをどうして質問するのだろう」という顔になりました。
 ややあって、金光様は次のように続けられました。「ダイヤモンドでは床は拭けないでしょ?」と。
 私たちは、物の値打ちを貨幣価値に換算して優劣を決めたがるところがあります。それに対して、金光様は物それぞれが持つ役割に着目して、「ダイヤモンドにはダイヤモンドの役割があり、雑巾には雑巾の役割がある」というように、いのちのレベルで見ることの大切さを教えてくださったのです。
 磨く物と磨かれる物。光る物と光らせる物。光らせることによって光るということもありますが、どんな物にも、どんな人にも、それぞれの役割と特質がある。みな、それぞれの値打ちがあるのだ、ということを教えていただきました。

●教会長のお国替え

 このたびの布教功労者報徳祭に、教会長である私の母が新霊神としてお<RUBY CHAR="祀","まつ">りしていただきます。母はことしの三月、八十九年の長い命を頂いて、お国替えさせていただきました。
 母はいろいろな病気を体験しました。十八年前には、骨粗しょう症による圧迫骨折のため、数年かけて背中が曲がってしまいました。その間の痛みは激烈なものだったようで、息の根が止まるかと思うほどの突き上げる痛みに苛まれました。
 母はその痛みに耐えながら、自分の心がどう動くかということを、自分で観察していたようです。「自分の信心がどうなっているのか、点検する機会を頂いた」と申していました。はじめのうちは、「神様がこの痛みをもって、氏子の痛みをわが痛みとしなさいとおっしゃっているのだ」と受けとめ、「ありがとうございます」と何度もお礼を申しながら、神様に向かっていたと言います。
 しかし、その痛みが何か月も続くと、「神様、いったいこの痛みがいつまで続くのですか」と恨みがましく抗議したと、後になって告白しています。一方で、「神様のご機感にかなう私にならせてください」とお願いしながら、他方で、「どうしてこんなに長く苦しまなければならないのですか」と文句を言う浅ましい自分の姿に、母はがく然とするわけです。
 そんな状況のなかで、ふと、ある思いに突き動かされ、それを機に心の中で事態が一変しました。それは、「神様が私だけに与えてくださったこの痛みごと、神様に向かわせていただこう。抱き取っていただこう」ということでした。その思いが浮かんだ時、「これだ!」と悟ったというのです。
 その瞬間から、実際の痛みは同じなのに、その耐えがたさが全然違ってきました。痛みそのものも神様のおはたらきと感得したのです。それからというものは、「痛みを感じる背中に心からお礼を申し上げることができるようになった」というわけです。

●「医学では説明できない」
 
 11年前、79歳の時には、悪性リンパ腫の手術を受けました。手遅れで他のリンパにも転移していましたが、とりあえず小腸の腫ようを25センチほど切除しました。本人の希望で、がんの告知をしました。医師の説明は遠慮会釈なしで、一年以内の再発による死亡率が高いということでした。
 手術後は順調に快復しましたが、年齢と体力、余命のことを考えて抗がん剤は打ちませんでした。医師の考えでは、「一、二年生きられたらよいほうだ。抗がん剤で苦しめるより、そっとしておいたほうがいい」という判断だったようです。
 手術後六、七年たったころ、手足の付け根のリンパが腫よう化して、にわとりの卵大に膨らみました。医師は、「切除すれば、他に転移したリンパも同じように大きくなり、手術を繰り返すことになるので、手術はしないほうがいい」と考えたようです。
 母は腫ようを取ってもらえないまま、神様におすがりしながらご用をさせていただいていましたが、にわとりの卵大になっていたその腫ようが、半年ほどで小さくなり、ついには消滅してしまいました。医師は首をかしげて、「医学的には説明できない」と言われました。別の医師は、「信仰の力ってすごいですね」と驚嘆されました。
 さらに致命的な病気を患いました。心筋こうそくでした。教会では六年前からご造営が始まっていましたが、母は着工祈願祭で祭主を務めた直後、心臓発作を起こしました。土曜日だったので病院は閉まっており、母は仮移転先に迷惑をかけたくないと思ったらしく、救急車を呼ぶことを固辞しました。
 月曜日になって、病院で心電図を取ってもらいました。「よく生きていましたね」と医師に言われ、そのまま専門の救急病院に転送されました。冠動脈が詰まり、心臓の半分が機能しなくなりました。

●自ら記した『御礼のことば』

 その母が今年三月、危篤状態になりました。往診に来たホームドクターは、「夕方まで持たないでしょう」という所見でした。かねての本人の希望で、入院はしませんでした。ところが、三日ほどすると快方に向かい、会話までできるようになりました。
 帰幽二日前のことです。朝ご祈念を済ませ、母の寝室に行き、「おはようございます」とあいさつしますと、まじまじと私の顔を見て、「長い間、命を頂いて、ありがたいことです」と申しました。その時、私は不思議な感覚にとらわれました。目を合わせて語り合っていても、母がそこに居てそこに居ない、空中から二人を見守っているというような感じでした。肉体への出入りが自由になっているような感じでした。
 それから葬儀についての遺言がありました。「書いた物がある」と申しますので、亡くなった後で探しますと、毛筆で清書された『御礼のことば』がありました。葬儀の終祭で、祭主が故人に代わって、神様に生前のことをお礼申し上げるのですが、それを自ら記していたのです。
 遺言と遺書に従って葬儀は密葬で行い、母の『御礼のことば』は祭主に代読していただきました。本葬は息子である私が祭主を務め、開教八十年祭の一週間前に執り行わせていただきました。
 帰幽の二日前、母が実によく話をするので、勧学祭に参拝してきた方たちに会ってもらいました。母はその一人ひとりに向かって、激励や慰め、教えや追想を語り、最期のお別れをしました。
 帰幽前日の朝、「ご本部にお礼参拝してきた」と申しました。私はその時、「本当にお参りをしてきたのだ」と思いました。そして、最期の日、私たちが手を握りながら見守るなかで、次第に呼吸も脈も細くなり、火が消え入るように息を引き取りました。

●自らも光り輝く魂に

 思えば、臨終に至る一週間余り、口を開けば「ありがとう」「ありがとうございます」と感謝の言葉ばかりで、慈愛に満ちた微笑みはこうごうしく、まさに光り輝く魂でした。
 サナギが蝶になるかのようなその過程をずっと見てきた孫たちに、母はしっかりと神様を渡していきました。みんなが信心深くなりました。うわさを聞いた近所の方が、「素晴らしいご臨終だったそうですね。信仰の力なのでしょうね。私もあやかりたいです」と言われました。母は寝ていても、信仰の素晴らしさを周囲の人たちに伝えていたのです。
 母を知る人たちは、「やはりお徳のある先生は違いますねえ」とおっしゃってくださいました。私は「そうですね」と言いかけて、「いや、そうではない」と思いました。「みんなも私のようになれるのですよ」と、身をもって見せてくださったのではないかと思えたのです。
 教祖金光大神様は、「私のことを生神と言うが、私がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられる」と教えられています。そういうお道を、直信先覚先人の霊神様方が歩まれて、私どもにも開かれています。「このお道をしっかりとお歩きなさい」とおっしゃってくださっているのだと思います。
 神様の分けみたまを頂いているお互いです。病気も難儀も神様からのお差し向けと受けとめ、それを磨き砂にして自らを磨き続け、周りの人を光らせることによって、自らも光り輝く魂になりたいものだと思います。
   (2006.12.10 布教功労者報徳祭並びに金光鑑太郎君十五年祭祭典前の教話から)