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[ 三代教会長教話 ]

ある日の教話

1989(H1)年7月
三代教会長 田 中 花 枝

  体の痛みを通して、神様の慈愛を知る            

 昨年から背中が痛み始め、その痛みは日毎に強くなってきました。私は、これは神様が「人の痛みを我が痛みと受け止め、人の身になって願うてやれ」と仰っておられるのだと思って、修行として取り組むことにしました。
 背中が痛む時は、活を入れられた時に出るウッ!という声が断続的に出ます。夜、休もうとしていると息の根が止まるかと思う程突き上げる痛みがきます。私はそういう痛みとか苦しみのある時、自分の心がどう動くかということを通して、信心とはどういうことなのだろうか、と考えました。そして、朝、神様に「今日こそご神意にかなった、神様に喜んで頂けるような氏子にならせて下さい」とお願いし、一方では「この痛みがいつまで続くのだろう。やり切れない」とうらめしく思ったりしている自分の姿に気がつきました。
 そんな状況の中で、ふと「こんなに痛みが続くのなら、痛みと一緒におかげを頂こう」と思ったのです。そう思った時から、実際に同じように痛んでいるのに堪え難さが全然違ってきたのです。私はこれだ、と思いました。こんなにまでしないと、私という人間は神様のお働きが分からないのだということをひしひしと感じさせられたわけです。
 生まれてから、一刻の休みもなく心臓をはじめ、あらゆるものを生かし働かせて下さる神様のおかげを受けている私なのに、何かというと「これはやり切れない」とか、「いつまでこの痛みが続くのだろうか」と不足に思ったり不安に思ったりして、良い働きをしてほしいとの神様の願いをそっちのけにしていたことに改めて気がつきました。そして未だに痛みを感じる背中に心からお礼を申し上げることができるようになりました。
 私たちは、大きな天地の中に生かされていることに心を寄せ、頂いている命と心に真底からお礼申し上げることが本当に大切だと思わされております。そうでなければお参りしていても形だけの参拝となってしまいますので、私は参拝して来られるご信者さんに、「神様は喜び勇んだ、生き生きした心をお受け取り下さるのですから、教会へ参拝してきれいごとだけでなく、辛いこと、嫌なことなど、何もかも吐き出してお取次を頂き、私ども一人ひとりにかけられた神様の思いというものをしっかりと見つめさせてもらわねばなりません。人のことが悪く思えてみたりするときは、わが心が濁っていると思って、それぞれに信心の稽古を進めさせて頂きましょう」と、お話をさせて頂いております。
 私の体の痛みを通して教えて下さった神様の、厳しく、限りないご慈愛を感じながら、改めてご神意を体した生き方、御用のあり方を求めさせて頂こうと、日々取り組ませて頂いております。


  *これは、『金光教報』(平成元年七月号)に掲載された「ある日の教話」を抄録したものです。