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喜びの宮竣工  −ご造営の軌跡−

副教会長 田中元雄

事の始まり

 夢が現実となった、無から有を生ずる、ということはこういうことをいうのだろうか。ご造営竣工に至る今日までの五年間、幾たび神様のおはたらきに打ち震える感動を覚えたことであろうか。
 ご造営の軌跡をたどってみる。
 平成五年の阪神淡路大震災の経験から、責任役員・杉山一郎氏から、教会の耐震性はだいじょうぶだろうか、と自ら専門家を呼んできて診断してもらったところ、かなり危ないということで、補強工事を行うことにした。それを平成八(一九九六)年の開教七十年祭へ向けての記念事業として取り組むことになった。
 そこへ、補修よりもご造営を考慮しては、と再三願い出た方があり、信徒総代・責任役員会議、更に信徒会役員会を経てご造営を発願した。
 平成八年四月に造営委員会が設けられ、委員長に安田忠雄氏が就任した。
 重ねる造営委員会の中で、設計を林建築設計室の一級建築士・林隆氏に依頼することになり、約一年間をかけて鉄骨3階建の設計図を完成させた。一九九九年十一月着工、二〇〇〇年四月竣工の計画を立てた。

隣地が売りに

 いよいよ詳細設計に入る段階で、仮移転先を探し始めた。母屋の空いた隣家に打診すると、解体、売却の予定という。隣地が売りに出るなど思いもかけないことだった。そうしたなりゆきに先代の遺志を想った。先代は、何とか隣地を買って境内地を拡げたいということが積年の念願であった。これはまさにご神意であると、設計を中断して土地交渉に入ったが、難行した。名義人は前年に亡くなっており、相続がらみの売却で四人の相続人の意見が揃わなかった。加えて教会側には資金があってのことではない。
 奇しくもその直前、十数年ぶりに参拝してこられた方があった。本日はお礼参拝に参りました、と言われた。「初代の先生、二代の先生には母が筆舌に尽くせぬお世話になりまして」とおっしゃってお供えがあった。それが土地交渉のベースになった。世間では「隣の土地は二倍しても買え」と言われているが、根拠がなければ、交渉のテーブルに就くことも出来なかった。適正な価格で売買したい、それが隣家のもっともな注文だった。
双方の言い値には大きな開きがあった。その仲介に大聖不動産の植田匡氏が立って下さった。これまで信者さんが不動産がらみの問題があると、電話で相談に乗って頂いてきた方である。「私を信者の代表ということで交渉させて下さい」とおっしゃった。相談と打ち合わせのために何度となく会社に伺って、元々会社に祭ってあった金光様の場所を移したということだったので、宅祭をさせて頂いた。
 難航する交渉に役員たちは断念の意向を強めていった。しかし、大先生は「これはご神意です。何としてもおかげを頂きましょう」と揺るぎのない確信をもってみんなの動揺を押さえた。

敷地が二倍に

 四ヶ月の交渉の末、売買契約が成立した。一九九九年八月末のことである。当方の願いに添った額であった。隣家代表の方に電話をすると「教会に買って頂いてよかった。ありがとうございました」と言って下さった。「私の方こそ」と、何よりも有り難くその言葉を受け取った。後から私の娘から聞いてびっくりした話なのだが、娘が高校時代、近くのコンビニでアルバイトをしていたとき、レジでしきりに話しかけてくるおばあさんがいた。「あんたは他の人と違って私の話をよく聞いてくれるねえ。ぜひ家にお茶を飲みに来てちょうだい」とくり返し誘われるので、何度か伺ってお茶を飲みながら様々な話を聞いたという。一人住まいなので寂しかったのだろう、という話だった。それがアパート経営をする隣家の人だったのである。その方は売買契約の直前に亡くなった。
 かくして土地が二倍の広さになった。従来の土地の広さは六十坪。新しい敷地は一二三坪である。角地の土地は何とも魅力的な地形になった。それまでの設計はふり出しに戻ったが、教会にはどういう機能が必要であり、どういう動線を描くものかについては充分煮つめられていた。それまで懸案になっていたお広前の奥行きのなさ、お結界の独立性の獲得、駐車場の狭さ、トイレの位置どりなど懸案事項が悉く一挙に解決した。
 かくして計画は一年ほど後へずれて、二〇〇一年という二十一世紀の始まりに竣工することになった。

無限の天地が形に

 機能、動線から平面図の基本構想がかたまった次の問題は外観だった。設計士からいくつかの提案がなされ、そのつど、間取りの問題と共に検討したが、何かもの足りなく思っていた。
 ある朝未明、たくさんのFAXが入ってきた。それを見て「これだ!」と叫んだ。無限の天地を現す究極の形が描き出されていた。
 壁面が円弧を描いており、それがお結界においても、お広前でも、機能的にも形状的にも、これしかない、というあらわれ方をしている。ご神殿もお広前も円弧であって円そのものではない。神様の円弧に私たちの円弧を合わせて全き円となる。このお広前はあいよかけよの全き働きを求めている、促している。与えてやまぬ天と受けてやまぬ地とが働きあって天地を成り立たしめているように、神のリズムと人のリズムが響き合って全きを得る。そのシンボルとしての円を内包する教会が誕生することになった。

入札

 次なる問題は請負工事会社の決定である。果たして予算の中におさまる見積りを出してくれる会社があるだろうか。素人考えにも単純計算で予算が二、三千万円不足している。四社の入札となった。丁度それを決定する時期、私はパラグアイ、ブラジルにいた。eメールでやりとりしながらとり進めた。eメールといえば設計を進める上での強力な武器となった。当初はFAXでやりとりしたが、私の方からeメールを二〇〇通ほど発信している。林氏からもほぼ同数のメールを受信した。インターネットは距離を超えることを実感した。
 林隆氏は松本氏在住である。数々の賞を受賞して、独立した第一号の仕事がわが大崎教会の建築となった。設計監理をお願いしたが、距離のハンデを感じた事は一度もない。足繁く通い、見事な監理者ぶりを発揮した。林氏は設計士としても超一流だが、監理者としても、超一流であった。
 施工会社の選定に関しても、施主側に立って十二分満足のいく交渉をして下さった。そうして、ほぼ当方の願い通りの線で守谷商会東京支店が受注してくれた。後に聞いた話だが、同支店長は、このご造営はぜひ受注したいという強い熱意をもっていたという。理由は、教会という公共性の強い建築は、単なる私邸とは違う広報性をもつからだ、という。設計者としては友人紹介による独立第一号の記念すべき仕事、施工者としては、出来上がった教会そのものがPR性の高い建築、というそれぞれの思い入れがあって全力を傾注して下さったのである。教会側は、予算なく、見通しなく、土地取得のために当初の二倍の額を必要とする辛い立場にあった。その中を、ほぼ当初の予算計画の中に収め、高レベルの造営を完成して下さった林氏、守谷商会には、深く感謝したい。

資金繰り

最後の難問は資金ぐりであった。三月初めの引き渡し直後には支払いを完了しなければならない。一月の時点で二四〇〇万円不足していた。責任役員、信徒総代会議が招集され、借り入れ承認願を本部に提出した。本部から借入れ承認がなされたが、どこからどのように借りるか苦慮した。教会長は「借り入れしないおかげを頂きましょう」の一本槍で、祈念に終始されていた。私はこれまで霊様にお願い事をしたことはなかった。いつもお礼を申し上げている。しかし、この時ばかりは初代先生、二代先生を始め多くの霊様になりふり構わぬ思いで資金繰りのことをお願いした。果たして、二月に入って「定期預金の満期を待っていました」「願っていたのですがようやく工面できました」などと献納される方が相継ぎ、ついに支払いが出来ることになったのである。

現場代理人

 建築現場の監督、遠山敦之氏はまったく献身的に、全身全霊を打ち込んでその任に当たった。暑い暑い夏から、寒い寒い冬の終わりまで、朝は早くから夜遅くまで現場に貼りついていた。長野の人だが、この仕事のために女房子供を置いて単身赴任だった。私はほとんど毎朝夕、建築現場の前でご祈念した。国際センターの御用の帰り、どんなに夜遅くとも、現場事務所には灯りが点っていた。しばしば立ち寄り、進行状況について会話がはずんだ。その間にいろいろな話を聞いた。ここの現場は隣家との関係がよいので会社内で良い現場だとの評価が高いこと、設計がしっかりしており厳しい監理指摘も受けるのでたいへん勉強になること、良い職人さんに恵まれてこみ入った作業も入念にやってもらったこと、予算が厳しくやりくりに苦労して下請けさんに相当ムリを言ってきたが内容的にはグレードの高い仕上げになったこと等々。
 この建築では、ずい分細かいところまで、細かく高度の技術を要求している。設計の林氏は、監督の遠山さんにずいぶん無理な注文をしたけど、そのほとんどの要求を満たしてもらった、という。それだけでなく、遠山氏の持つ技量で設計以上によいものにしてもらったとも聞いた。職人さん達も、様々な要求をつきつけられたが、それが職人魂に火をつけたようで、いろいろと工夫し、それぞれに「勉強になった」「楽しかった」などの感想をもらしていた。そのようにそれぞれの力がそれぞれに触発し合ってレベルの高いものになり、ご造営は成就した。

大先生の入院

 予想外の重大な出来事が起きた。着工祈願祭の八月五日は猛暑だった。祭主を仕えられた大先生が、そのお礼参拝にと親教会へ向かう車中で心筋梗塞を起こした。週末だったこともあって、入院は二日後になった。入院までの間に二度目の発作を起こしていた。「よく生きていたね」と医師に云われた。専門病院へ転院してカテーテルによる処置をうけた。入退院をくり返して処置は二度に及んだ。ご造営が完了して引越しの日、三度目の発作が起きた。これは未だ原因不明だが、医師は「大変厳しい」と言った。何度も死線を越えるような事態にもかかわらず、その間にも昨年の秋季霊祭、生神金光大神大祭、そして今年に入って元日祭、春季霊祭の節目節目には祭主の御用を頂いている。体はボロボロだが心には強靱な芯が貫かれている。神様一筋の信である。三月十七日に退院して新しいお広前の外に立ったとき、感動に涙がこみ上げ、ご神前にて祈りを捧げて感極まったという。

喜びの宮を真の喜びの宮に

 土地購入の売買契約の時、不動産業者は「良いときにお買いになりましたね」と言った。建築請負契約の時、守谷商会の方々は、「良いときに建築できますね」と語った。別に時を選んだわけではないが、神導きのままに、そうした時を得させて頂いたのだ、としみじみと思う。
 あれもこれも、難局の数々をよくぞよくぞここまで来させて頂いたものだ、と感無量である。この建物の存在が神様のあらわれそのものである。
 形は出来た。御礼信行五十日間信奉者一丸となってご祈念、そして信行としての洒掃に精を出し、お広前をピカピカに磨き上げてきた。だが、このお広前は大崎教会信奉者の専有物ではない。地域の人、家族、友人、そして世界中の人が参拝し、祈り、助かっていく場である。喜びで出来た喜びの宮を、喜びに満たされた喜びの宮にしていきたい。その内実をこれから着実に生み出していきたい。